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論文作成のための準備作業として,収集した情報,調査したこと,現時点における自分の考えを整理してみたことなどを断片的に記したものである。
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まちむら農場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
 
株式会社町村農場
種類 株式会社
略称 町村農場
本社所在地 〒067-0055
江別市篠津183番地
電話番号 011-382-2155
業種 乳製品の製造・販売
代表者 町村 均
関係する人物 町村敬貴
外部リンク まちむら農場
  

まちむら農場( - のうじょう)は、北海道江別市にある乳業メーカー株式会社町村農場(まちむらのうじょう)が用いる、牛乳やソフトクリームなど乳製品のブランド名。札幌市や江別市をはじめとする周辺市町村の住民に親しまれている。

沿革 [編集]

  • 1917年 創業者町村敬貴が現在の石狩市で農場を創設
  • 1927年 江別市対雁(現江別市いずみ野)に移転
  • 1992年 周辺地域の宅地化に伴い、現在地へ移転

農場概要 [編集]

  • 名称 - まちむら農場
  • 所在地 - 北海道江別市篠津183番地
  • 乳牛飼育数 - 380頭
  • 経営耕地面積 - 165ha
  • 農場直売所を併設
  • 2000年よりバイオガスプラントを導入

その他 [編集]

  • 江別市対雁の旧農場跡は、旧町村農場という資料館として公開されている。
  • 製品は農場直売所のほか、札幌市にある直営販売店や全国のデパートなどで購入することができる。
  • 札幌駅パセオの「まちむらファーム」では町村農場の乳製品が味わえる。

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]

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町村金五

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
警視総監在任中の町村金五

町村 金五(まちむら きんご、1900年8月16日 - 1992年12月14日)は、日本内務官僚政治家

宮部金吾佐藤昌介等と共に、クラーク博士の創設した札幌農学校で学び日本における“酪農の草分け”と言われた町村金弥の息子である。兄の町村敬貴は元貴族院議員・元参議院議員、次男の町村信孝衆議院議員

内務官僚時代は、官選の新潟県富山県両県の知事を経て、内務省警保局長(特高警察の元締)や警視総監などを歴任したが、戦後に公職追放された。

公職追放が解除されると、衆議院議員総選挙に立候補して国会議員となる。その後、北海道知事に当選し3期務める。任期満了後は参議院議員に転じ、自治大臣等も務めた。総選挙に4回、参院選挙に2回当選した。

年譜 [編集]

家族・親族 [編集]

系譜 [編集]

                 ┏町村善啓
                 ┃
                 ┣町村泰男
                 ┃
                 ┣町村鉄男
                 ┃
                 ┣町村俊郎
                 ┃
           ┏町村敬貴━╋光子
           ┃     ┃ ┃
           ┃     ┃ ┣━━━美穂
           ┃     ┃ ┃    ┃
           ┃     ┃原文兵衛 中川雅治
町村織之丞━町村金弥━┫     ┃
           ┃     ┗寿美子
           ┃       ┃
           ┃       ┣━━━┳町村敬志
           ┃       ┃   ┣町村謙
           ┃      町村末吉 ┗町村均
           ┗町村金五
             ┃    亀山孝夫
             ┃     ┃
             ┃   ┏康子  
             ┃   ┃
             ┃   ┣町村忠良
             ┃   ┃
             ┃   ┣町村信孝
             ┃   ┃
             ┃   ┣君代
             ┣━━━┫ ┃
             ┃   ┃山本悟
             ┃   ┃
             ┃   ┣ひろ子
             ┃   ┃ ┃
             ┃   ┃秋山進
             ┃   ┃
             ┃   ┗富士江
           ┏二葉     ┃
           ┃      遠山景敏
      桑田熊蔵━┫
           ┃
           ┗千枝子
             ┃
             ┣━━━━河合良一
             ┃
           河合良成

参考文献 [編集]

  • 『町村金五伝』 北海タイムス社 1982年

脚注 [編集]

  1. ^ 『町村金五伝』 424-438頁 - 町村家の過去帳にある最古の戒名は「無門院大道善翁居士」で没年は元和6年(1620年)「町村家の先祖」と記されている。天保7年(1836年)の本多家の給帳によると、180人の内、席次27番目に町村次郎兵衛の名があり、10人扶持の禄を受けていた。その嫡男惣助(後の織之丞)は、席次69番目、10俵で御近習をつとめていた。また、天保年間(1830年代)や安政年間(1850年代)の史料によると、もっぱら御目付をつとめていたとされ、本多家においては、中級の武士として遇されていた

関連項目 [編集]

  • 岸洋子-町村が後援会会長を務める
  • 植木光教-町村の下で秘書や北海道知事室長務めた


 

町村敬貴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
町村 敬貴(まちむら ひろたか、1882年12月 - 1969年8月12日)は、日本政治家実業家。元貴族院議員、元参議院議員。正四位勲二等。

町村金弥は父。政治家町村信孝は甥。町村金五(元北海道知事)は実弟。


 

経歴 [編集]

  • 1882年(明治15年)12月20日、北海道札幌郡豊平町真駒内に町村金弥・そとの長男として生まれる。父・金弥は前年の明治14年に札幌農学校(二期生)を卒業後真駒内牧牛場の主任として経営に当たっていた。[1]
  • 1903年(明治36年)札幌農学校(現在の北海道大学)農芸伝習科に入学
  • 1906年(明治39年)札幌農学校を卒業後単身渡米、ウィスコンシン州ウエストアリスのラスト牧場にて牧夫として酪農を実習
  • 1910年(明治43年)4月 ウィスコンシン州立農科大学入学
  • 1912年(明治45年)一旦帰国、渡辺志津と結婚、再度渡米
  • 1913年(大正2年)3月 ウィスコンシン州立農科大学を卒業。
  • 1916年(大正5年)帰国
  • 1917年(大正6年)北海道石狩町樽川にて町村農場を創業
  • 1928年(昭和3年)に北海道江別町対雁に移転。
  • その後、乳牛の改良に血統の及ぼす影響の大なることを痛感し、米国のそれをつぶさに調査し、私財をもって数次にわたり米国より基礎種牛を購入し、その改良繁殖につとめた[2]
  • 1945年(昭和20年)貴族院議員に勅撰される
  • 1947年(昭和22年)参議院議員に当選。緑風会に所属し、1期務める
  • 1950年(昭和25年)吉田内閣農政懇談会に学識経験者委員として参加
  • 1952年(昭和27年)政府の嘱託として欧米各国の泥炭地改良事業及び土地利用状況視察のため出張
  • 1962年(昭和37年)日本酪農の確立、ホルスタイン種の導入普及など農業界への功績により藍綬褒章を賜る
  • 1963年(昭和38年)第二回全国農業祭畜産部門天皇杯受賞
  • 1964年(昭和39年)江別市名誉市民
  • 1967年(昭和42年)志津夫人逝去
  • 1968年(昭和43年)オーストラリア、ニュージーランドに於ける酪農事情を視察
  • 1969年(昭和44年)逝去 享年87。[4]

エピソード [編集]

エピソード1 [編集]

  • スポーツ万能
  • 敬貴は少年時代から健康に恵まれ、背も高く、スポーツ万能であった。札幌農学校で敬貴が作ったハンマー投げの記録は、北大で25年間破られなかったという。その頃のハンマーは、現在の針金の付いた鉄球と違い、本当のハンマーのように、鉄球に60センチくらいの木の柄がついたもので、それを大きく振って投げた。敬貴が競技会で投げた時、大きく振り回した鉄球が地面に触れて、土煙を上げたので、もう一度やり直したら、というものもいたが、審判部長の松村松年博士がこれだけ投げたのだから、よいだろうといって、一回投げただけで止めたという。それまでの農学校の記録は18メートルであったが、敬貴は19メートルと一挙に1メートルも記録を伸ばした。[5]


 

エピソード2 [編集]

  • ウイスコンシン州のラスト牧場で牧夫として実習
  • 敬貴が渡米したのは明治39年4月。横浜港から家族に見送られて旅立った。それから十年間、敬貴はその立志を達成すべく帰国しなかった。
  • 渡米から1年間はシアトル周辺で農家の手伝い、製薬工場のタンク掃除、赤帽などの数々のアルバイトをした。
  • 敬貴がアメリカに渡った翌年の明治40年春、宇都宮仙太郎がアメリカに牛を買いに来て、父金弥からの依頼で、北海道と自然風物がよく似ているウイスコンシン州・ウエストアリスのラスト牧場で牧夫として働けるよう手配をした。
  • 明治40年の敬貴の日記によると、
  • 4月27日 本日宇都宮氏、吉田氏に面会す。
  • 4月30日 佐治君の家を引き上げ、シアトルに行き、色々とEast行きの用意をなす。
  • 5月4日  本日午後9時半の汽車(注:グレート・ノーザン鉄道)に投じて出発す。
  • 5月7日  午後5時 Saint Paul(注:セントポールミネソタ州の州都)に着、8時35分C,Mor,St,P.R.Y(注:ミルウォーキー鉄道)の汽車に投ず。
  • 5月8日  本朝6時半、ミルウォーキーに着す。而して近きホテルに投ず、中々疲れたり。
  • 5月9日 本朝ホテルボーイに聞き、12時15分の汽車にてWest Allisに行く。先ず葉書を案内として、初め着せるはRustのBrother Houseにて、之より昼食を喫し、ボギーにて一マイルばかり、目的の家に着す。此の日は、色々と労働着などを用意す。
  • 5月10日 本日早朝より、搾乳し労働につきたり。先ずは道路の石のけにて、一番油を搾られたるは、実に閉口であった。案外East Eastと申して、余りに理想に駆られ過ぎたり。
  • 5月12日 Sundayは牛舎の働きのみにて、少しくtimeあり、手紙を書きたり。
  • 5月19日 本日は朝の仕事を終りて、ミルウォーキーに行き、少しく買物を、公園に遊び、五時帰村す。
  • ラスト牧場は兄弟牧場であり、共同経営であった。兄と弟は別々に近くで牧場を経営し、150ヘクタール程度で、ホルスタインは5、60頭程度だった。敬貴が実習に入ったのは弟の方で、場主、ジュリアス・ラストはドイツ系の米国人でウイスコンシン・ホルスタイン協会の副会長をしており、一男二女がいた。
  • 敬貴の一日は次のようであった。
  • 朝4時起床、搾乳、牛のかたづけ、7時朝食、牛を外に出す、それがすむと厩に行く。手入れをして、鞍をつけ、馬とともに働く、昼休みが1時間、また馬を出して働きに出る、6時ごろにあがる。馬を入れる。牛を入れて食事をさせ6時半頃夕食、7時から夜の搾乳、8時半から9時頃に仕事が終わる。[6]

エピソード3 [編集]

  • ウイスコンシン州 州立農科大学に学ぶ
  • アメリカへ渡って4年目、敬貴は札幌農学校出身ということもあり、英語さえわかればアメリカの大学へ入学できうるということになり、ウイスコンシン州の州立農科大学酪農科に入学した。大学のある州都マジソンは当時人口二万程度、酪農の中心地であっただけに、大学も試験研究所も一流中の一流の水準を持っていた。[7]
  • 敬貴は後年ラスト牧場における回想を次のように語っている。
  • 「・・・・・・私が初めて世話になった家庭(注:ラスト牧場のこと)でも、いろいろと私のために図ってくれまして、お前も折角来たんだから、やはり大学だけはやらなければうまくないだろう、夏はおれのところで働けばいいから、秋から春までは大学に行って勉強して来い、といいます。向こうに丁度大学がありましたから、三年間だけは夏働いて、秋冬春を大学で過ごしまして、もうその時には、どうやら言葉が自由になりましたが、みんなと一緒に学んで得た利益は多いと、私は思っております。それはみな、自分がその家に非常に尽くしたものですから、学費を出してくれたのです。学校を出ましてから後も、ラスト牧場に帰りまして、また相当長い期間働きましたが、常に北海道へ帰ろうということだけは、自分の念頭から離れなかった。・・・・・・」[8]

家族・親族 [編集]

系譜 [編集]

                 ┏町村善啓
                 ┃
                 ┣町村泰男━━町村泰貴
                 ┃
                 ┣町村鉄雄
                 ┃
                 ┃     ┏町村貴郎
                 ┣町村俊郎━┫
                 ┃     ┗町村英郎
                 ┣婦美子
                 ┃ ┃
                 ┃岩倉規夫
                 ┃
           ┏町村敬貴━╋光子
           ┃     ┃ ┃
           ┃     ┃ ┣━━━美穂
           ┃     ┃ ┃    ┃
           ┃     ┃原文兵衛 中川雅治
町村織之丞━町村金弥━┫     ┃
           ┃     ┗寿美子
           ┃       ┃
           ┃       ┣━━━┳町村敬志
           ┃       ┃   ┣町村謙
           ┃      町村末吉 ┗町村均
           ┗町村金五
             ┃    亀山孝夫
             ┃     ┃
             ┃   ┏康子  
             ┃   ┃
             ┃   ┣町村忠良
             ┃   ┃
             ┃   ┣町村信孝
             ┃   ┃
             ┃   ┣君代
             ┣━━━┫ ┃
             ┃   ┃山本悟
             ┃   ┃
             ┃   ┣ひろ子  ┏てる子
             ┃   ┃ ┣━━━┫
             ┃   ┃秋山進  ┗まり子
             ┃   ┃       ┃
             ┃   ┃     小早川光郎
             ┃   ┗富士江
           ┏二葉     ┃
           ┃      遠山景敏
      桑田熊蔵━┫
           ┃
           ┗千枝子
             ┃
             ┣━━━━河合良一
             ┃
           河合良成

 

参考文献 [編集]

  • 『町村金五伝』 北海タイムス社 1982年 447、451-452頁
  • 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 2001年 10-21頁

関連項目 [編集]

脚注 [編集]

  1. ^ 『町村敬貴伝』35頁
  2. ^ 『町村金五伝』 452頁
  3. ^ 『町村金五伝』 447頁
  4. ^ 『町村敬貴伝』300-302頁
  5. ^ 『町村敬貴伝』66頁
  6. ^ 『町村敬貴伝』79-84頁
  7. ^ 『町村敬貴伝』86頁
  8. ^ 『町村敬貴伝』90-91頁
  9. ^ 『町村金五伝』 424-438頁 - 町村家の過去帳にある最古の戒名は「無門院大道善翁居士」で没年は元和6年(1620年)「町村家の先祖」と記されている。天保7年(1836年)の本多家の給帳によると、180人の内、席次27番目に町村次郎兵衛の名があり、10人扶持の禄を受けていた。その嫡男惣助(後の織之丞)は、席次69番目、10俵で御近習をつとめていた。また、天保年間(1830年代)や安政年間(1850年代)の史料によると、もっぱら御目付をつとめていたとされ、本多家においては、中級の武士として遇されていた

外部リンク [編集]

町村金弥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
町村 金弥(まちむら きんや、安政6年(1859年) - 昭和19年(1944年11月25日)は、日本実業家政治家。元大久保町長。

政治家町村信孝の祖父。

経歴 [編集]

越前国府中(現福井県越前市、旧武生市)に府中領主本多家家臣・町村織之丞(第9代当主)、こうの長男として生まれる[1]。父・織之丞は町奉行を務め“清廉潔白の”といわれ、明治維新後は寺子屋児童の教育にあたった[2]

慶応3(1867年)、8歳の時に府中藩校立教館に入学、父織之丞は金弥に新時代の学問を修めさせる為、東京日本橋に武生名産蚊帳の問屋を営む郷党の人米倉嘉兵衛に託し、明治4年(1871年)、12歳の時に奉公の傍ら夜学に通う。[3]

さらに上級学校を目指し、英語を学ぶ為、明治6年(1873年)に愛知県英語学校に学ぶ。坪内逍遥三宅雪嶺らと机を並べる。同校を卒業後明治8年(1875年)に東京の工部大学校予科に学び、英国人教師ハミルトンの教えを受ける。

明治10年(1877年)3月工部大学校を受験合格するが、その年2月におきた西南戦争の軍費増大が予想され、授業料の要らない官費合格者が例年の半分近くに減らされ、金弥は私費生合格であった為、学費に窮した。丁度同じ時期、前年の明治9年(1876年)に開校した札幌農学校が官費の2期生を募集しており、好都合に工部大学校にパスした者は無試験採用だったので、直ちにこれに応じた。

入学した同期生の内村鑑三新渡戸稲造宮部金吾など18名とともに、明治10年(1877年)8月27日、開拓使御用船玄武丸(644トン)にて品川を出帆、函館を経て9月3日小樽に上陸、乗馬で札幌に向かい、夜札幌農学校寄宿舎(現在の時計台のあたり)に入った。


 

農学校在学の4年間、主だった教師は皆米国人にて、土木はホイラー、農学はブルックス、化学はベンハロー、衛生学はカッターの4教授で、日本人教師を交えざりしため英語の進歩は著しきものがあった(数学、漢学、教練等の日本人教師が数人いた)。そして、金弥は御雇い外国人として開拓使に勤めていたエドウィン・ダンに就いてアメリカ式農場経営法を学んだ。

明治14年(1881年)7月、札幌農学校を卒業する。同期生は内村鑑三、宮部金吾、廣井勇南鷹次郎岩崎行親、新渡戸稲造、藤田九三郎足立元太郎高木玉太郎と金弥の10名であった。[4]

同年、真駒内牧牛場を管理。明治23年(1890年)、雨龍華族組合農場事業主任となる。明治24年(1891年)、雨竜町村農場を経営、後小作制とする。明治30年(1897年)、十勝開墾合資会社農場長となる。

明治34年(1901年)、陸軍省で農事専任技師を務め、軍馬補充部として釧路、岩手、福島を担当。明治43年(1910年)、東京に転勤し、大正5年(1916年)に陸軍省を退職。

以降10年、大久保町長を勤め、町長退職後は自適の生活を送っていたが、戦争中五男金五に伴われ生まれ故郷武生に疎開した。

昭和19年(1944年)11月25日、郷里の福井県武生(現在の越前市)で亡くなる。86歳であった。[5]

その他 [編集]

エピソード [編集]

エピソード1 [編集]

  • 明治10年3月、町村金弥が受験した工部大学校入学試験の一部である。
  • ”Translate into English”

「豊公秀吉嘗て鷹を野に放てり。渇甚し。一の僧寺に投じ。茶を乞う甚だ急なり。行童(きゅうじのこども)有り。一大椀の茶を進む。微温にして盛ること七八分に到る。公一に喫して快と称す。更に一椀を進む。少熱にして半椀に満つ。公徐(ゆるゆる)に喫し了り。又一椀を要む。是に於いて代るに小椀を以ってす。大熱にして俄に口すべからず。公其才の敏なるを愛し。之を住持の僧に請い。携え帰り以って小臣と為す。漸く之を愛寵し。後竟に列して五奉行と為す。治部少輔石田三成是なり。」

  • 入校試験の学科次の如し

1.英文和訳、2.和文英訳、3.英文書取、4.英文典作文、5.算術、6.幾何学初歩、7.代数初歩、8.地理学 [6]

エピソード2 [編集]

  • 札幌農学校学生生活は?
  • 寄宿舎に到着した二期生は?
  • 舎室に各自の名札が掛けてあり、各自の部屋に落着いた。後で知ったピッカリ加藤という綽名のある事務員が万事懇切に指導してくれて非常に便宜を得た。ピッカリとはちと口やかましい処より誰かが言い触らしたものならんが到って親切な仁であった。
  • 寄宿舎は1室十畳間位に二人で、備付けの寝台あり食事は和洋食で朝夕は洋食、昼は和食であった。食事は相当なもので当時鹿の肉が沢山あり、時々食膳に上がったが頗る美味であった。[7]
  • 内村鑑三は大秀才?
  • 内村氏は全学年を通じて常に級のヘッドボーイにて、頭脳明晰常に賞金は同氏の独占に帰した。[8]
  • 内村鑑三と寄宿舎で4年間同室だった宮部金吾は自叙伝の中で次のように記述している。
  • 内村君は頭脳が頗る明晰であり、その記憶力の強大なる事は実に驚くべきものがあった。勉強は規則正しくその努力も人一倍であったが、試験の成績を見るに殆ど各学科に亙り最高点を取らないものはなかった程で、恐らく札幌農学校開始以来、内村君程最優等の成績を取った者は他に一人もあるまいと思う。
  • 内村君は試験間際になって急に勉強をするというようなことは決してなく、試験の丸一週間前にはすべて準備が出来ていて、授業が済むと一人で散歩に出かけ、歩きながら頭の中で答案を練って置き、不審な処があれば帰ってからノートや本を見るという風であった。[9]

エピソード3 [編集]

  • 宗教は?
  • 「我々第2期生が着札後初めて教室に出るや、教頭ホイラー氏よりバイブル一冊ずつを渡され、爾後毎週1回復習講堂にてバイブルの講義を聴聞し居たりしが、偶々函館よりハリス宣教師の来札せらるるを期として、同期生中の信者は洗礼を受けんと鶴首せられしも、岩崎行親、南鷹次郎、及び自分の三人は感ずる所ありて偽信者となるを潔しとせずとて、哀情をハリス氏に訴えしに却って賛辞を受けたる事あり。是にて信者と非信者との分界が明瞭となりしも道を以ってことであるから双方の交際上些かも問題は起こらなかった。右三人が決心を固める迄には種々の経緯あり、時には圓山神社境内に出かけて協議を重ね相当苦心した。一時は退校せんと迄論議を進めたが熟慮の結果退校のことは中止と決定した。我々が洗礼を受けなかったのは夫々家庭の事情があったからである。」。[10]

エピソード4 [編集]

  • 金弥が卒業後最初の仕事は?
  • 札幌農学校を卒業したのは明治14年7月であった。直ちに真駒内牧牛場に赴任したところ、予算緊縮に際し8,500円の予算が4,900円に減額せられ、大改革を断行せねばならぬこととなった。先ず場員の減員断行より着手し、諸般の施設に対し出来る限りの大削減を加えた。初めて社会に出、赴任した何ら経験なき若輩が当事者になったので相当苦心はしたが、平常なら手の出しようなき事にてもいざとなると案外活動できるものとの感を抱いた。これが、実社会の第一歩にて、将来何の仕事をなす上においても、大なる教訓を得たりと思いたり。
  • 真駒内牧牛場はその名の如く専ら洋種牛を飼育し、牧畜教師として米国人ダンが開拓使の雇教師として事業を指導し、我々も牧畜経営上多大の知識をえた。この真駒内牧牛場の勤務により、将来農牧業で身を立てる決心を固めたのである。
  • (注)エドウィン・ダン:開拓使より欧米の農業を指導する為招聘された技術者の一人。明治6年、来日し東京で永眠するまでの56年間、日本を愛し北海道は勿論、日本の産業、経済、文化のあらゆる面にその全身全霊を捧げつくした偉大な先駆者の一人であった。ダンの仕事はアメリカから優れた家畜を持ってきては、牧場を開いて日本人に飼い方や利用法を教え、大きな農機械器具を馬で引かせ、北海道の原野をどんどん開拓していく大きな農法を、自分でやって見せて、日本人に教えることであった。[11]

エピソード5 [編集]

  • 熊狩り?
  • 明治23年、雨龍華族組合農場事業主任として雨龍地区の開拓当初、熊が出没したため時々熊狩りを行った。

「ある時金弥は雨龍奥地を探検するため、三人連れで出かけた帰途、一本道の真ん中に大熊が踏止り、三人をじろじろ見ている。三人はこの熊を如何にして避けようかと協議の末、三人ともに大声を出して見たところ、大声に恐れをなしたものか姿を消したので、三人一生懸命走って逃げた。 それまで、馬上にて熊に会ったことがあるが、この時ほど危険を感じたことはなかった。」[12]

エピソード6 [編集]

  • 探検?
  • 明治30年頃に十勝に行くには、函館より小汽船で十勝川河口の大津に上陸。大津は湾ではなく普通の海岸故港はなく汽船の乗降が非常に困難であった。金弥はその実況を観察、十勝を開拓する為には石狩より十勝へ汽車を通ずるより他に道なしを痛感した。その明治30年、十勝鉄道の噂もない時代に金弥は十勝石狩間の跋渉を企てた。
  • 明治30年9月10日、金弥とアイヌ5人は十勝熊牛農場を出発し、16日に無事旭川に到着した。この旅行中6日間の野宿をするにあたり、アイヌが毎晩小木、木の葉、フキの葉などで小屋を作りその中で就寝した。ある時は、途中雨にあい、徒渉せねばならない川が出水して濁流となり、その深浅を知ることが出来ず、アイヌの言葉を信じ、水深3尺を超えざる検討で渉り無事彼岸に達することが出来た。この時は6人互いに手を引き合い一番強そうなアイヌを先頭に立て他はこれに続いて渉った。[13]

家族・親族 [編集]

  • 先妻 そと(福井県、醸造山本怡仙三女)
  • 後妻 馨(福井県、酢醸造業山本怡仙二女)
  • 長男 敬貴(政治家、牧場主) - 町村農場を創設
  • 長女 こと(山口県、教育者林端に嫁する)
  • 二男 誠(貿易業を営む)
  • 二女 せん(広島県士族、教育者岡本半次郎に嫁する)
  • 三男 実
  • 三女 幸子(下川美佐雄に嫁する)
  • 四男 敬三
  • 四女 春子(福井県、学者・早稲田大学教授小林新に嫁する)
  • 五男 金五(官僚、政治家・北海道知事)
  • 五女 貞子

系譜 [編集]

 
           ┏町村敬貴
           ┃
           ┣こと 
           ┃ ┃ 
           ┃林端 
           ┃  
           ┣町村誠
           ┃  
           ┣せん  
           ┃ ┃
           ┃岡本半次郎
           ┃  
           ┣町村実
           ┃
町村織之丞━町村金弥━╋幸子
           ┃ ┃
           ┃下川美佐雄
           ┃
           ┣町村敬三
           ┃
           ┣春子
           ┃ ┃
           ┃小林新
           ┃
           ┣町村金五
           ┃
           ┗貞子   

参考文献 [編集]

  • 猪野三郎監修 『第二十版大衆人事録』 1937年 東京620頁
  • 『町村金五伝』 北海タイムス社 1982年 430-441、446頁
  • 旧工部大学校史料 109-119頁
  • 札幌同窓会報告
  • 北海道牛づくり百二十五年 37-55頁

関連 [編集]

脚注 [編集]

  1. ^ 『第二十版大衆人事録』620頁に「福井縣士族織之丞長男」と記載されている
  2. ^ 『町村金五伝』 445頁
  3. ^ 『北海道牛づくり百二十五年』 37-55頁
  4. ^ 昭和15年12月『札幌同窓会 第63回報告』 1-3頁
  5. ^ 『北海道牛づくり百二十五年』 37-55頁
  6. ^ 『旧工部大学校史料』 109-119頁
  7. ^ 昭和15年12月『札幌同窓会 第63回報告』 1-3頁
  8. ^ 昭和15年12月『札幌同窓会 第63回報告』 1-3頁
  9. ^ 宮部金吾自叙伝77頁
  10. ^ 昭和15年12月『札幌同窓会 第63回報告』 1-3頁
  11. ^ 昭和19年8月『札幌同窓会 第67回報告』 2-4頁
  12. ^ 昭和16年12月『札幌同窓会 第65回報告』 1-2頁
  13. ^ 昭和19年8月『札幌同窓会 第67回報告』 2-4頁
  14. ^ 『町村金五伝』 424-438頁 - 町村家の過去帳にある最古の戒名は「無門院大道善翁居士」で没年は元和6年(1620年)「町村家の先祖」と記されている。天保7年(1836年)の本多家の給帳によると、180人の内、席次27番目に町村次郎兵衛の名があり、10人扶持の禄を受けていた。その嫡男惣助(後の織之丞)は、席次69番目、10俵で御近習をつとめていた。また、天保年間(1830年代)や安政年間(1850年代)の史料によると、もっぱら御目付をつとめていたとされ、本多家においては、中級の武士として遇されていた

外部リンク [編集]

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