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町村金五
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
町村 金五(まちむら きんご、1900年8月16日 - 1992年12月14日)は、日本の内務官僚、政治家。
宮部金吾や佐藤昌介等と共に、クラーク博士の創設した札幌農学校で学び日本における“酪農の草分け”と言われた町村金弥の息子である。兄の町村敬貴は元貴族院議員・元参議院議員、次男の町村信孝は衆議院議員。
内務官僚時代は、官選の新潟県・富山県両県の知事を経て、内務省警保局長(特高警察の元締)や警視総監などを歴任したが、戦後に公職追放された。
公職追放が解除されると、衆議院議員総選挙に立候補して国会議員となる。その後、北海道知事に当選し3期務める。任期満了後は参議院議員に転じ、自治大臣等も務めた。総選挙に4回、参院選挙に2回当選した。
年譜 [編集]
- 1900年8月16日 - 北海道札幌市に町村金弥・そとの五男として生まれる 東京開成中学、第二高等学校甲組英法文科を経て、
- 1924年3月 - 東京帝国大学法学部政治学科卒業 5月 - 内務省入省 任青森県属 知事官房主事兼内務部庶務課勤務
- 1925年10月 - 兼任青森県警部 警察部警務課長
- 1926年10月 - 任地方警視 静岡県警察部保安課長
- 1929年8月 - 任地方事務官 静岡県内務部商工課長兼水産課長
- 1930年4月 - 任地方警視 静岡県警察部警務課長 7月 - 任宮内事務官兼帝室林野局事務官 大臣官房秘書課勤務帝室林野局東京支局監理課長兼整理課長
- 1931年5月 - 任宮内書記官 大臣官房総務課兼秘書課勤務
- 1932年7月 - 任宮内大臣秘書官兼宮内書記官
- 1936年4月 - 任岐阜県書記官 補警察部長
- 1937年2月 - 任三重県書記官 補警察部長
- 1938年1月 - 任内務省書記官 警保局警務課長
- 1939年4月 - 兼任内務大臣秘書官
- 1941年1月 - 任富山県知事(~1943年)
- 1943年4月 - 任内務省警保局長 補警察講習所長 11月 - 兼任防空総本部警防局長
- 1945年2月 - 任新潟県知事(~1945年4月9日)兼任海運局長 4月 - 任警視総監 8月 - 任東京都次長(宮城事件の責任を問われて警視総監を辞任したことによる)
- 1946年1月 - 依願免本官
- 1952年10月 - 改進党公認で第25回衆議院議員総選挙に立候補し当選
- 1954年 - 日本民主党の結成に参加せず無所属となる その後自由党に入党
- 1955年 - 保守合同による自由民主党の結成に参加 自由党出身の緒方竹虎と行動をともにする
- 1956年:旧緒方派の流れをくむ石井光次郎派に所属。
- 1959年4月 - 日本社会党幹部横路節雄破り北海道知事(~1971年4月)。同年、北海道師友会会長に就任。
- 1971年6月 - 第9回参議院議員通常選挙に立候補し当選
- 1972年5月 - 北海タイムス社代表取締役会長
- 1973年11月 - 第2次田中角榮内閣で自治大臣、北海道開発庁長官
- 1980年7月 - 自民党参議院議員会長 11月 - 勲一等旭日大綬章受章
- 1992年12月14日 - 死去、叙・正三位。
家族・親族 [編集]
- 父 町村金弥
- 母 そと(福井県,酢醸造業山本怡仙三女)
- 妻 二葉(鳥取県 学者桑田熊蔵娘)
- 長男 忠良
- 長女 富士江
- 二男 信孝(官僚、政治家)
- 二女 ひろ子
- 三女 君代
- 四女 康子
- 兄 敬貴(政治家 町村農場を創設)
系譜 [編集]
- 町村氏 町村家は江戸時代、代々越前藩の支藩・府中領主本多家に仕えた武士の家系だった[1]。父町村金弥は町村家9代目当主・町村織之丞の長男として生まれた。金弥は札幌農学校に学び、北海道開拓事業にその生涯を捧げ、「北海道酪農の父」といわれた人物。
┏町村善啓 ┃ ┣町村泰男 ┃ ┣町村鉄男 ┃ ┣町村俊郎 ┃ ┏町村敬貴━╋光子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━美穂 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃原文兵衛 中川雅治 町村織之丞━町村金弥━┫ ┃ ┃ ┗寿美子 ┃ ┃ ┃ ┣━━━┳町村敬志 ┃ ┃ ┣町村謙 ┃ 町村末吉 ┗町村均 ┗町村金五 ┃ 亀山孝夫 ┃ ┃ ┃ ┏康子 ┃ ┃ ┃ ┣町村忠良 ┃ ┃ ┃ ┣町村信孝 ┃ ┃ ┃ ┣君代 ┣━━━┫ ┃ ┃ ┃山本悟 ┃ ┃ ┃ ┣ひろ子 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃秋山進 ┃ ┃ ┃ ┗富士江 ┏二葉 ┃ ┃ 遠山景敏 桑田熊蔵━┫ ┃ ┗千枝子 ┃ ┣━━━━河合良一 ┃ 河合良成
参考文献 [編集]
- 『町村金五伝』 北海タイムス社 1982年
脚注 [編集]
- ^ 『町村金五伝』 424-438頁 - 町村家の過去帳にある最古の戒名は「無門院大道善翁居士」で没年は元和6年(1620年)「町村家の先祖」と記されている。天保7年(1836年)の本多家の給帳によると、180人の内、席次27番目に町村次郎兵衛の名があり、10人扶持の禄を受けていた。その嫡男惣助(後の織之丞)は、席次69番目、10俵で御近習をつとめていた。また、天保年間(1830年代)や安政年間(1850年代)の史料によると、もっぱら御目付をつとめていたとされ、本多家においては、中級の武士として遇されていた
関連項目 [編集]
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