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論文作成のための準備作業として,収集した情報,調査したこと,現時点における自分の考えを整理してみたことなどを断片的に記したものである。
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エンゲルス
●『イギリスにおける労働者階級の状態(1,2)』

●『ドイツ・イデオロギー』(マルクスとの共著)
青年ヘーゲル派の批判を通じて、唯物論的な歴史観の基礎を明らかにしようとした著作だが、マルクス・エンゲルスの生前は刊行されず、草稿・原稿の集積として終わり、死後に刊行された。
『反デューリング論(オイゲン・デューリング氏の科学の変革)』

●『フォイエルバッハ論(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結)』
マルクス・エンゲルスが彼らの思想を固めた時期を振り返り、その思想を簡潔にまとめた貴重なものとして読まれた。付録の『フォイエルバッハに関するテーゼ』は、『ドイツ・イデオロギー』等の遺稿が公開されていなかったので、とりわけ貴重な哲学的命題群として読まれた。
本文は、平易な文で、広く読まれてきた。しかしその平易さゆえ、ドイツ哲学が受容されていない地域では恣意的に解釈され、また、生前のマルクスが関説していない論点についてはマルクスからの逸脱を指摘する説もあらわれた。マルクス主義の入門書であるとともに論争の書である。
「序」によると、この小論文はC.N.シュタルケ著『ルートヴィヒ・フォイエルバッハ』(1885)に対する書評を依頼されたのをきっかけに書かれたものである。意図するところは、復活してきた古典哲学派に、自分たちがヘーゲル哲学から出発し、そして離れて行った経過をあきらかに示すこと、同時に、その時のフォイエルバッハの役割の大きさを示すことで彼への借りを返すこと、と言う。

●『家族・私有財産・国家の起源』
国家や一夫一婦制、私有財産を自明のものとする歴史観にたいして、それらが歴史的なもの、すなわちある条件のなかで生成し、またその条件の解消にともなって消滅(変化)するにすぎないと主張した。本書の序文に「以下の諸章は、ある程度まで遺言を執行したものである」とあるように、エンゲルスの盟友であったカール・マルクスが書いたルイス・ヘンリー・モーガンの『古代社会』の摘要(ノート)を使って、エンゲルスが独自に仕上げたものである。エンゲルスはマルクスの死後、1884年2月にこのノートを発見し、5月には脱稿するという異例の早さで執筆した。1884年段階では社会主義者取締法があり、それを考慮せざるをえなかったが、同法の廃止をうけて、4版では倍に増やした。増やした主要な部分は第2章の家族に関する章で、著作全体の3分の1以上をしめ、エンゲルスがもっとも重要視した章である。
マルクス・エンゲルスは『共産党宣言』において「これまでのすべての歴史は階級闘争の歴史である」と書いたのち、これに注をくわえ、原始状態を別とした。マルクスが1859年に『経済学批判』を書いた時点で、すべての民族の歴史の入り口に原始共産制社会があったと考えた。こうした理論を豊富化するために、マルクスもエンゲルスも古代史の研究を熱心におこなった。ゲオルグ・ルートヴィヒ・フォン・マウラーの『ドイツ村落制度の歴史』や、マクシム・マクシモーヴィッチ・コヴァレフスキーの『共同体的土地所有 その解体の原因、経過および結果』、サー・ヘンリー・ジェームズ・サムナ・メーンの『初期制度史講義』、サー・ジョン・ラボックの『文明の起源と人類の原始状態』などのノートがつくられた。また、J・J・バッハオーフェンの『母権論』からも大きな影響を受けており、エンゲルスは本書の序文でバッハオーフェンについて言及している。

●『空想から科学へ(空想から科学への社会主義の発展)』
1880年に社会主義への入門書としてエンゲルスが自著『反デューリング論』を抜粋してつくったパンフレット。正式名称は「空想から科学への社会主義の発展」。1880年のフランス語版や1892年の英語版などは『空想的社会主義と科学的社会主義』というタイトルだった。
本書の出版の経緯は、本書にあるエンゲルスの序文に簡潔にまとめられている。ドイツの2つの労働者党(アイゼナハ派とラサール派)が合同し1875年にドイツ社会民主労働党が結成されたころ、カール・マルクスやエンゲルスの理論を基礎とするグループは、アイゼナハ派の一部でしかなかった。そのとき、この政党内で理論的影響を広げつつあったのが、ベルリン大学の私講師であったオイゲン・デューリングだった。デューリングはマルクスの理論を1つの仮想敵としており、さらに「彼のまわりに1つの派閥、すなわち将来別個の党になる中核を公然とつくりはじめた」(エンゲルスの序文)ので、エンゲルスはこれを批判する論文を機関紙『フォルウェルツ』で連載。これが1878年に出版されて『反デューリング論』(正式名は「オイゲン・デューリング氏の科学の変革」)となった。
『反デューリング論』はドイツ語だけであったのと、マルクスの娘婿で「フランス下院議員であるポール・ラファルグの要請によって、私〔エンゲルス──引用者注〕はこの本の3つの章をパンフレットにまとめ、それをラファルグが翻訳して、1880年に『空想的社会主義と科学的社会主義』という表題で出版した」(エンゲルス前掲書)。
本書の第1章は、『反デューリング論』の「序説」第1章「総論」、第3篇第1章「歴史的概説」を使い、第2章は「序説」第1章、第3章は第3篇第2章「理論的概説」を活用している。『反デューリング論』がマルクスとエンゲルスの理論分野を網羅した著作になったことに対応し、本書にものちにウラジーミル・レーニンが「マルクス主義の3つの源泉と3つの構成部分」として定式化した社会主義理論、哲学、経済学の3つの要素が簡潔に入っている。しかしこの定式をマルクス主義の定式としてしまうことには異論も多い。
エンゲルスは『反デューリング論』についてその序文のなかで「私〔エンゲルス──引用者注〕は印刷する前に原稿を彼〔マルクス──引用者注〕に読みきかせた」とのべ、また本書についてもマルクスは序文で本書を「科学的社会主義の入門書」と紹介したように、基本的にマルクスの承認のもとに本書は刊行されている。
 

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●『資本論』の中の共産主義論
『資本論』は、資本主義の生成、発展、没落(発展的解消)に関する本で、よく誤解されているように共産主義の未来モデルを描いた著作ではない。しかし、『資本論』には、資本主義的生産の歴史的性格を浮き彫りにするために、それ以前の生産様式(封建制、奴隷制など)がしばしば登場し、資本主義以後の社会、すなわち共産主義社会についてもその限りで大まかな特徴づけが数十カ所で行われている。
ただし、全3部の中で「共産主義社会」と形容されている箇所はわずか2箇所しかなく、マルクスはこの資本主義以後の社会について「結合的生産様式」「結合した労働の様式」「協同的生産」「社会化された生産」などと形容している。より詳細な規定としては、「協同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」(第1部第1編)、「労働者たちが自分自身の計算で労働する社会」(第3部第1編)、「社会が意識的かつ計画的な結合体として組織」(第3部第6編)などがある。
ここからもわかるように、『資本論』においては旧ソ連式の国有化・単一計画などの具体的形態に言及した箇所は無く、生産を社会の理性によって規制するという一般論が述べられているだけである。また、マルクスは『資本論』第3部で、「自由の国」と「必然の国」の問題に触れ、共産主義革命の目的を述べている。すなわち、経済が資本主義=剰余価値(もうけ)の追求から解放され、社会の合理的な規制の下に服して社会の必要に対する生産という経済本来のあり方を回復するが、それでも生産は人間が生活していく上で必要な富をつくりだすための拘束的な労働(必然の国)が要る。しかし、この時間は時間短縮によって次第に短くなり、余暇時間(自由の国)が拡大する。『資本論』第3部では、この時間の拡大によって人間の全面発達がおこなわれ、人間が解放されるとマルクスは主張した。
●『資本論』研究
元々のマルクスのプランに基づく『資本論』の復元については様々な議論がおきている。現在、マルクスとエンゲルスの全ての著作物を刊行する新MEGA[1]の試みが国際的な共同作業で行われ、この中で『資本論』の構成についても吟味されている。この新MEGAにおける第II部「『資本論』および準備労作」全15巻24分冊の編集はL・ミシケーヴィチ、L・ヴァシーナ、E・ヴァシチェンコ、大谷禎之介、C・E・フォルグラート、R・ロート、E・コップフ、大村泉、M・ミュラーなど各国の研究者により、進められている。
初期の日本語訳は高畠素之らによるもので、これを勉強した中国の留学生が社会主義・共産主義を中国に持ち帰ったと言われる。資本論の読み直しは、フランスのルイ・アルチュセールや日本の廣松渉、今村仁司、柄谷行人らによって行われている。
●『資本論』への批判
マルクス主義一般を批判した著作や学派は多数あるが、『資本論』そのものを批判した代表的な論者の一人にオーストリアの経済学者でウィーン学派のオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクがいる。ベーム=バヴェルクは、『マルクス体系の終結』のなかで、マルクスが第1部では価値は投下労働量によって決まるといっているのに、第3部ではそれとは別の、需給変動にもとづく生産価格と平均利潤率の理論を持ち出しているとして、これを『資本論』の第1部と第3部の矛盾と批判した[2]。
また、この問題に関わって、価値が価格に転化する際に、総価値=総生産価格が貫かれるとするマルクスの立場を批判したドミトリ・エフ・ボルトケヴィッチなどがいる。これらを総称して「転形問題論争」という。
●『資本論』の方法
マルクスが『資本論』で用いた方法は、資本主義社会全体の混沌とした現象全体の中から分析によって次第に単純な概念へと到達し(その最も基本的な概念が『資本論』では「商品」だった)、叙述にあたってはその単純な概念を展開して「後もどり」を行い、再び資本主義社会の全体像を再構成する、というものである。
「表象された具体的なものから、ますますより希薄な抽象的なものにすすみ、ついには、もっとも単純な諸規定にまで到達するであろう。そこからこんどは、ふたたびあともどりの旅が始まるはずであって、最後に再び人口にまで到達するであろう。だがこんど到達するのは、全体の混沌とした表象としての人口ではなく、多くの諸規定と諸関連をともなった豊かな総体としての人口である」(マルクス『経済学批判序説』)。
これがマルクスが『資本論』で用いた「上昇・下降」と言われる方法、ヘーゲル弁証法の批判的継承とされているものの核心の一つで、その方法の核心は、唯物論を基礎とする分析と総合による分析対象の全体像の再構成である。『資本論』のサブタイトルが「経済学批判」であるのは、当時の主流であった古典派経済学とそれを受け継いだ経済学(マルクスの謂いによれば「俗流経済学」)への批判を通じて自説を打ち立てたからである。
マルクスが『資本論』において、古典派を批判したその中心点は、古典派が資本主義社会が歴史的性格を持つことを見ずに、「自然社会」と呼んで、あたかもそれを普遍的な社会体制であるかのように見なしたという点にある。すなわち資本主義社会は歴史のある時点で必然的に生成し、発展し、やがて次の社会制度へと発展的に解消されていく、という「歴史性」を見ていないというのだ。
マルクスは『資本論』第1巻の「あとがき」において、このことをヘーゲル弁証法に言及しながら、こう述べた。「その合理的な姿態では、弁証法は、ブルジョアジーやその空論的代弁者たちにとっては、忌わしいものであり、恐ろしいものである。なぜなら、この弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れのなかで、したがってまたその経過的な側面からとらえ、なにものによっても威圧されることなく、その本質上批判的であり革命的であるからである」。
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