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自己愛性人格障害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
自己愛性人格障害(じこあいせいじんかくしょうがい、Narcissistic Personality Disorder)とは、ありのままの自分を愛せず、自分は優越的で素晴らしく特別で偉大な存在でなければならないと思い込む人格障害であるとされるが、過度に歪んだルールである内的規範が弱いケースであるため、精神病的に扱われる事もある。
概要 [編集]
境界性人格障害とセットにして扱われる事もあるが、自己愛性人格障害の方が内的規範は比較的高いとされる。また、境界性人格障害の回復期には、一過性の自己愛性人格障害を経るケースが多いという報告もあり、より安定した状態であるとも考えられる。これとは逆に、自己愛型防衛に失敗した自己愛性人格障害の患者が、境界性人格障害様の状態を呈した例も報告されている。自己愛性人格障害はどちらかと言うと男性に多いとされる。WHOのICD-10では正式な精神障害としては採用されていない。
- 境界性人格障害でも原因として日本では過保護、アメリカでは虐待が多いという指摘があるが、自己愛性人格障害に関しても似たような言説がある。しかし、果たして本当にそうなのかは専門家の間ではコンセンサスが取れていない。過保護が虐待の可能性もあるという指摘もある上、境界性人格障害でも脳の脆弱性が問題となっているようにそうした生理学的要因も考えられる。
- 主に虐待としては暴力ではなく、多忙な親に放置される、無視される等の不満が原因である場合が多い。
- 実際に社会的に評価されたり、ルックスや家柄が良い、IQが高い等、常に多大な賞賛を浴びる状態が幼少期から続く、など本人の素質よりも周囲の行動によって自己愛性人格障害になる場合が多い。
- 自己愛性人格障害の万能感は母子関係によってさらに強化されることがある。境界例的な親自身や周りの家族や友人が見捨てられる不安から、子どもを甘やかす等である。
臨床像 [編集]
- 内的には不安定であるにもかかわらず、外見はむしろ正常。「頭がいい」「仕事ができる」「表現力がある」「人づきあいがうまい」「美人(ハンサム)である」などの長所がある。そのため、彼らが不適応行動を起こしたとき、周囲の人は意外な感じを持つことが稀ではない。
- 自分について素晴らしい理想的な自己像(誇大的自己)を抱き、自分は他人より優れた能力を持っているとか、自分は特別だと思い込んでいる。うぬぼれが強い。そして、誇大的な自己像を現実化しようと絶えず努力している。次から次へと際限なく成功・権力・名声・富・美を追い求める。
- その背後で、常に深刻な不安定感や頼りなさを経験し、本質的には他者依存的である。自尊心を維持するために、絶えず周囲からの称賛・好意・特別扱いを得ようとする(アルコール依存症患者が酒を求めるように)。あるいは、自分が理想とするような権力や能力のある人に頼り、まるで自分がその人であるかのように考えたり振る舞ったりする。
- 妬み・羨望がとても強く、自分が持ちたい、成し遂げたいと思っているものを他人が持っている、成し遂げていると感じ、内心あるいは外見上その人に怒りや憎しみを持ったり、自分の不運を嘆く。他人の失敗を喜ぶ。
- 自己肯定感や自尊心が高まっているという感覚を、一定の期間維持することができる。この感覚が自分を支配しているとき、自分が傷ついたという、弱い一面を持っていることにほとんど気付かない。しかし、誇大的な自己像が傷つけられるような体験をすると、一転して自分はだめだ、価値がない、無能だと感じる。自分についてもある一つの体験についても、よい面もあれば悪い面もあるといったとらえ方ができない。
- 自分に向けられた非難や批判に対し、怒りや憎しみを持つか、屈辱感や落胆を経験する。これらの感情は必ずしも表面にあらわれず、内心そのように感じているということがしばしば。自分に言い聞かせて自分を慰めることができない。誰か他の人に慰め、認めてもらわないと、自分を維持できない。失敗について本当に反省したり、そのときのつらさや痛みを認識する能力に欠けている。失敗(あるいは批判)から新しく何かを学ぶことができない。しかし、能力のある自己愛者は、ほめられ認めてもらうために、自分を駆り立て休むことなく努力し、誇大自己を満足させようとする。これは、本人にとっては残酷な作業であるが、社会的には成功する。能力がない自己愛者は、より退行した形で他者からの是認を求めようとする。
- 他者についての評価が理想化と軽蔑との間を極端に揺れ動く。他者についても自分同様、長所と欠点を同時に認識してより深い統合的な理解を持つことができない。従って、対人関係は「相手が理想的・搾取的・サディスティックで、自分が無力・服従的・マゾキスティック」というパターンをとる。
- 誇大的な自己像を思い描き、その空想的な思い込みの世界に浸っている。他者と関係を持つにしても、それは自分の自尊心を支えるために人を利用しているにすぎない。本当の意味で他者に共感したり、思いやりを持ったり、感謝したりすることができない(もっとも言語的表現力がしばしばあるので、うわべだけの思いやりを示すことに長けている)。表面的な適応はさておき、他者との現実的な信頼関係を持つことができない。 Cf. 自己-対象(self-object):自己愛者の誇大自己(grandiose self)や自尊心を満たしてくれるような外部の人
診断基準 [編集]
DSM-IVでは誇大な感覚、限りない空想、特別感、過剰な賞賛の渇求、特権意識、対人関係における相手の不当利用、共感の欠如、嫉妬、傲慢な態度のうち5つ以上が当てはまることで示されるとされている。
- 自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)
- 限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
- 自分が"特別"であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
- 過剰な称賛を求める。
- 特権意識、つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
- 人間関係で相手を不当に利用する。つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
- 共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気付こうとしない。
- しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
- 尊大で傲慢な行動、または態度。
要点部分 [編集]
- 5つ以上が当てはまると自己愛性人格障害の可能性がある。
研究 [編集]
- ①フロイト 愛情対象の選択 依存型:自分を保護し養育してくれる対象を選ぶ
- ナルシシズム型:対象の中に自分自身を見出しそれに愛情を向ける
- ナルシシズムの定義:自己に対してのみ愛情を集中させる心的態度であり、リビドーが自我に逆流してしまった状態
- 発達図式⇒〈自体愛(オートエロテリズム)→自己愛→対象愛〉
- こうして移行、達成して初めて個としての自立する。
- 自己愛は発達途上の未熟なもの。
- ②コフート
- 自己愛転移-鏡転移:治療者が自分のことを理解をもって受け入れ愛してくれているのだと感じ、それまで秘かに抱いていた誇大的な自己を治療者に見せるようになることこと。
- 病因
- 母親の意にかなう時だけは子どもの自己愛が受け入れられるか、意にそわない場合は拒絶されるといった母子関係がそこにあり、子どもの誇大的な自己が、その時点でストップしたまま残ってしまっている(欠陥状態)。
- 治療
- 母親によるほどよい受け入れ。
- 分類
- 誇大的で要求がましい自信過剰タイプ。
- 自己評価が低く羞恥傾向があり、しばしば心身不全感を訴えるタイプ。
- (共通点)自己が満たされない空虚感と傷つきやすさ。
- 再び傷つけられることへの強い怒りを示す傾向がある点。
- ③カーンバーグ
- 病因:子どもの体質的な羨望の強さによるもの。また、それを補おうと母親が特別な子ども扱いをすること。
- 治療:内的な貪欲さを患者自身が認め受け入れていくこと。
- 分類:幼児的自己愛…現実的。愛情、信頼、依存、暖かさ。
- 病的自己愛…非現実的。依存はみられない。無遠慮で冷たい。
- 相手に対する羨望や、認め難い依存欲求を防衛するために、それを外界へ投影して相手を軽蔑・脱価値化し、一方で他者に依存する必要のない満ち足りた存在であると感じようとする。
日本における臨床像の治療過程 [編集]
- 臨床像:自己評価の低さ、抑うつ感、引きこもり。非常に傷つきやすい。
- ―(治療)→誇大的になり自己愛転移。誇大的な自己や、治療者への期待に対し、治療者が十分に応えられないでいると、傷つき、怒る。
- ☆このとき、治療者は脱価値化され無力感を味わわされる。この無力感は、もともと患者が傷ついていた時に味わっていたもので、それに耐え切れなくなって治療者の中に投げかけてきている。従って、治療者は患者の自己愛の傷つきに共感を示し続けることが大切。
治療 [編集]
- 精神分析
- 認知療法
- 薬物療法…抗うつ剤(うつ病圏で受診が多いため)
- リチウム(気分変動がよくみられるため)
疫学 [編集]
- 一般人口では1%以下。
- 病院患者の中では2~16%。
- 女性<男性 50~70%は男性。
経過・予後 [編集]
- 思春期に診断されることは稀。大人になってから。…青年期に至って出来あがる
- 人格障害で、長く続くもの。
- 慢性的で治療困難。自分の美しさや力、若さは失われていくものだけに一層自己愛にしがみつくこともある。
- 中年期の危機を迎えやすい。
鑑別診断・合併症 [編集]
- 境界性人格障害との区別→自己愛性には情緒的無関心がみられる。
- 強迫性人格障害→自己愛性の方が、共感性・関係性が低い。
- 妄想性人格障害→これには幼児的万能感はない。
- 合併症:気分変調障害、大うつ病、躁病、拒食症、薬物依存。
- 演技性人格障害、反社会性人格障害、妄想性人格障害。
反社会性人格障害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
反社会性人格障害(はんしゃかいせいじんかくしょうがい、Antisocial Personality Disorder)とは、他者の権利や感情を無神経に軽視する人格障害である。人に対しては不誠実で、欺瞞に満ちた言動をする傾向がある。以前は精神病質人格、社会病質人格(いわゆるサイコパス)と呼ばれていた。この人格障害は男性に多いとされる。
ただし、反社会性人格障害は精神医学的というよりは、社会的価値基準にもとづく診断であるため、これに関する議論は非常に多い。極端な例を挙げると「無謀で残虐な行為」をすると、戦乱時には「英雄」になるが平和時には「危険な殺人者」になるというような社会的評価基準の大きなブレがあり得るということである。
自己愛性人格障害の場合は、自分は優れているのだから人を使って当然だと考えて人を利用するが、それとは異なり、欲しいものを手に入れたり、自分が単に楽しむために行うのが特徴である。人を愛する能力や優しさは欠如しているが、人の顔色を窺って、騙したりする能力には優れているとされる。そのため、表面的には魅力的に見えることも多い。
反社会性人格障害の人は、アルコール依存症、薬物依存、性的逸脱行動、犯罪といった問題を起こしやすい傾向があるとされる。だが、危険なことをするわりには、精神的な弱さが見受けられる場合も多い。反社会性人格障害の人は、家族の内部で過去に反社会的な行動、薬物などの乱用、両親の不仲による離婚、虐待などがあったことが認められることもあり、危険な行動はそれを隠すためであるとも考えられる。また、反社会性人格障害の人は一般の人に比べて寿命が短い傾向があるといわれる。[要出典]
また、事故等で脳に損傷を受け反社会性人格障害を発症する場合があるが、これは事故による前頭前皮質の機能不全で起こるものと推測される。
DSM-IVでは、18歳以上になって初めてこの病気は診断されるとされる。
治そうという気持ちが少ないため、治療がなかなかうまくいかない上、トラブルを起こすことも多く、治療スタッフの負担が大きくなることから、治療機関によっては反社会性人格障害の患者を嫌がることも多いようである。
アスペルガー症候群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
対人関係の障害や、他者の気持ちの推測力、すなわち心の理論の障害が原因の1つと考えられている。特定の分野への強いこだわりを示したり、運動機能の軽度な障害も見られたりする。しかし、カナータイプ(伝統的な自閉症とされているもの)に見られるような言語障害は、比較的少ない。
歴史
- 1944年、オーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーによって初めて報告されたが、第二次世界大戦のため、その論文は戦勝国側では注目されていなかった。
- 1981年、イギリスの医師ローナ・ウィングがアスペルガー症候群の発見を紹介[1]。
- 1990年代になり世界中で徐々に知られるようになった。しかし、日本ではドイツ精神医学の影響が強かったことから、ローナ・ウィングの紹介以前に知られていた[2]。
発症の原因については自閉症#原因を参照のこと。近年、脳の先天的な機能障害と理解されるようになった。
概要
「アスペルガー症候群の定義」や「アスペルガー症候群と高機能自閉症は同じものか否かについて」は、諸説あるが、日本国内においては高機能自閉症(知的障害のない、あるいはほとんどない自閉症)と区別されることは少ない(アスペルガー症候群は、知的障害の有無を問わず、言語障害のない自閉症を指すという研究者もいる)。
自閉症の軽度例とも考えられているが、知的障害でないからといっても、社会生活での対人関係に問題が起きることもあり、知的障害がないから問題がほとんどないとすることはできない。知能の高低については、相対的に低いよりは高い方が苦しみが軽いという見解がある。日本では従来、アスペルガー症候群への対応が進んでいなかったが、2005年4月1日施行の発達障害者支援法によりアスペルガー症候群と高機能自閉症に対する行政の認知は高まった。しかし、依然社会的認知は低く、カナータイプより対人関係での挫折などが生じやすい環境は変わっていない。
また、注意欠陥・多動性障害(AD/HD)や学習障害(LD)などを併発している場合もある。このような合併障害があることと、「アスペルガー」や「自閉症」という言葉には偏見があることなどを理由に、まとめて「広汎性発達障害(PDD)」や「発達障害」と呼ぶ医師も増えている。なお自閉症スペクトラムの考え方では、定型発達者とカナータイプ自閉症の中間的な存在とされている。
特徴
自閉症スペクトラムに分類されている他の状態同様、アスペルガー症候群も性別との相関関係があり、全体のおよそ75%が男性である。ただし、症状が現れずに潜在化(治癒ではない)する場合も勘案せねばならず、この数値にはある程度の疑問も残る。
コミュニケーション上の主な特徴
非自閉症の人(NT:neurotypical, 典型的な精神の人)は、他者の仕草や雰囲気から多くの情報を集め、相手の感情や認知の状態を読み取れる。しかし自閉症の人はこの能力が欠けており、心を読むことが難しい(心の理論)。そのような、仕草や状況、雰囲気から気持ちを読み取れない人は、他人が微笑むことを見ることはできても、それが意味していることが分からない。また最悪の場合、表情やボディランゲージなど、その他あらゆる人間間のコミュニケーションにおけるニュアンスを理解することができない。多くの場合、彼等は行間を読むことが苦手あるいは不可能である。つまり、人が口に出して言葉で言わなければ、意図していることが何なのかを理解できない。しかし、これはスペクトラム状(連続体)の特徴である。表情や他人の意図を読み取ることに不自由がないアスペルガーの人もいる。彼らはしばしばアイコンタクトが困難である。ほとんどアイコンタクトをせず、それをドギマギするものだと感じる場合が多い。一方、他人にとって不快に感じるくらいに、じっとその人の目を見つめてしまうようなタイプもいる。相手からのメッセージ(アイコンタクトなど)が何を示すのか、彼等なりに必死に理解しようと努力するのだが、この障害のために相手の心の解読が困難で、挫折してしまうパターンが多い。例えば、初対面の人に挨拶をする際に、社会的に受け入れられている方法で自己紹介をするのではなく、自分の関心のある分野に関して一人で長々と話し続けるような行動をとる場合がある。
コミュニケーション上の特徴が障害とは限らない
症候群という表現は、アスペルガーの人は障害者(異常)で、その他の者は定型発達者(正常)というように感じる。しかし、特徴の見かたを変えると、客観的で、事実を正確に理解して表現することに長けているともいえる。以下に挙げられている「言葉を額面どおりに受け取る」や「些細なことにこだわる」という特徴も「厳正に規則を守る」と言い換えることもできる。例えば、パソコンのように順序だったものや規則的なものに興味を持てば、才能を開花させることも可能である。また「行間を読むことが苦手」というのは、行間を読まないコミュニケーション方法ということである。それは「行間を読むコミュニケーション(アスペルガー以外の多数派)」に対しての「少数派の方法」という関係である。
つまり、少数派であるために、多数派の人と自由にコミュニケーションが取れない、或いはコミュニケーション方法の違いを理解されないという問題が、社会生活での障壁となりやすい。
主な問題点
アスペルガーの人は、多くのアスペルガー以外の人と同様に、またはそれ以上に強く感情の反応をするが、何に対して反応するかは常に違う。 彼等が苦手なものは、「他人の情緒を理解すること」であり、自分の感情の状態をボディランゲージや表情のニュアンス等で他人に伝えることである。多くのアスペルガーの人は、彼等の周りの世界から、期せずして乖離した感覚を持っていると報告されている。
例えば教師が、アスペルガーの子供に(宿題を忘れたことを問いただす意味で)「犬があなたの宿題を食べたの?」と尋ねたら、その子はその表現が理解できなければ押し黙り、教師に自分は犬を飼っておらず、普通犬は紙を食べないことを説明する必要があるのかどうか考えようとする。つまり教師が、表情や声のトーンから暗に意味している事を理解できない。 先生は、その子が傲慢で悪意に満ち、反抗的であると考え、フラストレーションを感じながら歩き去っていくかもしれない。その子はその場で何かがおかしいとフラストレーションを感じながら、そこへ黙って立ち尽くすことだろう。
アスペルガーの子供は、言葉で言われたことは額面どおり真に受けることが多い。親や教師が励ますつもりで「テストの点数などさほど大事ではない」などとあまりきれい事ばかり聞かせたり、反対に現実的なことばかり教えたりすると、真に受けてしまい、持つべき水準からかけ離れた観念を持ってしまう危険性がある。彼らは、“大人の発言には掛け値がある”という疑いを持ちにくく、持ったとしても、はたして掛け値がどのくらいなのかを慮ることが困難であるため、発言者の願望を載せて物事を大げさに表現すると狙った効果は効き過ぎることになる。この傾向を助長する要因の一つに、通常であれば日常生活で周囲の人の会話などから小耳に挟んで得ているはずの雑多な情報を、アスペルガーの人は(アスペルガー特有の“興味の集中”のため)“聞こえてはいる”ものの適切に処理することができないことが考えられる。
限定された興味、関心
アスペルガー症候群は興味の対象に対する、きわめて強い、偏執的ともいえる水準での集中を伴うことがある。 例えば、1950年代のプロレスや、アフリカ独裁政権の国歌、マッチ棒で模型をつくることなど、社会一般の興味や流行にかかわらず、独自的な興味を抱くケースが見られる。輸送手段(鉄道・自動車など)、コンピューター、数学、天文学、地理、恐竜、法律等は特によく興味の対象となる。しかし、これらの対象への興味は、一般的な子供も持つものである。アスペルガー児の興味との違いは、その異常なまでの強さである。アスペルガー児は興味対象に関する大量の情報を記憶することがある。
また一般的に、順序だったもの、規則的なものはアスペルガーの人を魅了する。これらへの興味が物質的あるいは社会的に有用な仕事と結びついた場合、アスペルガーの人は実り豊かな人生を送る可能性がある。 例えば、コンピューターに取りつかれた子供は大きくなって卓越したプログラマーになるかもしれない。それらと逆に、予測不可能なもの、不合理なものはアスペルガーの人が嫌う対象となる。
彼らの関心は生涯にわたることもあるが、いつしか突然変わる場合もある。 どちらの場合でも、ある時点では通常1個から2個の対象に強い関心を持っている。 これらの興味を追求する過程で、彼等はしばしば非常に洗練された知性、ほとんど頑固偏屈とも言える集中力、一見些細に見える事実に対する膨大な(時に、写真を見ているかのような詳細さでの)記憶力などを示す。 ハンス・アスペルガーは彼の幼い患者を『小さな教授』と呼んでいた。なぜならその13歳の患者は、自分の興味を持つ分野に、網羅的かつ微細に入るまでの、大学教授のような知識を持っていたからである。
臨床家の中には、アスペルガーの人がこれらの特徴を有することに全面的には賛成しない者もいる。たとえばWing と Gillberg はアスペルガーの人が持つ知識はしばしば理解に根付いた知識よりも表層だけの知識の方が多い場合がある、と主張している。しかし、このような限定はGillbergの診断基準を用いる場合であっても診断とは無関係である。
アスペルガーの児童および成人は自分の興味のない分野に対しての忍耐力が弱い場合が多い。 学生時代、「とても優秀な劣等生」と認識された人も多い。これは、自分の興味のある分野に関しては他人に比べて遙かに優秀であることが誰の目にも明らかなのに、毎日の宿題にはやる気を見せないからである(時に興味のある分野であってもやる気を見せない、という意見もあるが、それは他人が同じ分野だと思うものが本人にとっては異なる分野だからだと思われる。例えば、数学に興味があるが答えが巻末に載っている受験数学を自分で解くことには興味が持てない、日本語の旧字体に興味はあるが国語の擬古文の読解問題には興味が持てない、など)。ノートやテスト用紙に文字を手書きすることを、とても面倒で苦痛に感じる子供もいる。一方、反対に学業において他人に勝つことに興味を持ったために優秀な成績を取る人も居り、これは診断の困難さを増す。他人に自分の主張を否定されることに強く嫌悪感を覚えるという人もいる。このことは学校などで学習上の大きな障害となる。例えば教師が生徒にいきなり答えさせ、生徒:「これは○○だと思います」先生:「 違うよね、これは××だよ」というように、否定して答えやヒントを教えるような方法はアスペルガーの人には相当な苦痛と感じることとなる。 しかし多くの成人は、忍耐力のなさと動機の欠如などを克服し、新しい活動や新しい人に会うことに対する耐性を発達させている。
アスペルガーの人は高い知能と社交能力の低さを併せ持つと考える人もいる。
このことは子供時代や、大人になってからも多くの問題をもたらす。 アスペルガーの子供はしばしば学校でのいじめの対象になりやすい。なぜなら彼等独特の振るまい、言葉使い、興味対象、身なり、そして彼等の非言語的メッセージを受け取る能力の低さを持つからである。彼等に対し、嫌悪感を持つ子供が多いのもこのことが要因だろう。このため教育の場である学校において、今後はサポート体制の確立や自立の支援、他の子供への理解を深めさせる、といった総合的な支援策が必要になるだろう。
「アスペルガー」という一つのカテゴリーであっても、人によって障害の度合いは千差万別である。例えば学校の友達と上手く話せたり、話を上手くまとめられるなど、至って軽度な場合もある。また、上手く話せず、それでもよい友達に巡り会えたから必死で耐えている、というように、自閉度が中度–重度なこともある。 この障害は、カナータイプの自閉症などと違い、一見「定型発達者」に見えるために、周りからのサポートが遅れがちになったりすることが問題となっている。
アスペルガーの人は他の様々な感覚、発達、あるいは生理的異常を示すこともある。その子供時代に細かな運動能力に遅れをみせることが多い。特徴的なゆらゆら歩きや小刻みな歩き方をし、腕を不自然に振りながら歩くかもしれない。手をぶらぶら振るなど(常同行動)、衝動的な指、手、腕の動きもしばしば認められる。
アスペルガーの子供は感覚的に多くの負荷がかかっていることがある。騒音、強い匂いに敏感だったり、あるいは接触されることを嫌ったりする。例えば頭を触られたり、髪をいじられるのを嫌う子もいる。この問題は、例えば、教室の騒音が彼等に耐えられないものである場合等、学校での問題をさらに複雑にすることもある。 別の行動の特徴として、やまびこのように、言葉やその一部を繰り返す反響言語(エコラリア)と呼ばれる症状を示す場合がある。
性同一性障害との関連性
アスペルガー症候群は健常者に比べて性的違和を訴える人の割合が多く、性同一性障害との関連が指摘されている。アスペルガー症候群は胎児期のホルモンバランス異常(男性ホルモンの過剰分泌など)が指摘されており、性自認などの性形成にも影響を与える可能性がある。また、親が高齢などの原因で脳の器質異常が先天的に併発しやすい可能性や疎外感などから異性に対し同一性を求めるなどの説もある。
アスペルガー症候群への社会的偏見
2001年5月にソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント (米国)が「アスペルガー 死の団欒」と名づけて発売する予定だった外国映画(原題は「Absence of the Good」、1999年のアメリカのテレビ映画)が、抗議を受けて発売中止となった。原題にはアスペルガーという単語は使われておらず(直訳しても「良心の不在」程度にしかならない)、登場人物にもアスペルガー症候群らしい人物は存在しないと考えられる[3]。
また、2008年頃から相次いで、医師によるアスベルガー症候群の解説書が刊行されている事について、医師たちの執筆動機の一つには、あたかもアスペルガー症候群の人物が犯罪を起こしやすいかの様な誤解や偏見が広まってしまった事を是正する事がある。この背景には一部の少年事件の加害者がアスペルガー症候群だと報道された事が挙げられる。本来、アスペルガー症候群の人たちは、理解できる規律を良く守り、犯罪とは対極に居ると一部では言われている。[4]
実際、アスペルガー症候群の人物が犯罪を起こしやすいというデータはなく、鑑別所や少年院の中にも2%程度しか該当者は居ないとされている。また、犯罪を起こしたケースについても、対人コミュニケーションスキルの不足から、当人が世の中の仕組みを良く理解できていない事によって軽微な犯罪が引き起こされてしまったケースが殆どであると言われている。[5]
アスペルガー症候群の援助
アスペルガー症候群の人は、現代社会に対し、非常に適応しにくい困難さをかかえている。あちこちで衝突が起こり、引きこもりになっていることも少なくない。自分自身に強いコンプレックスを抱え、自殺志願を持つ人も決して少なくない。そういうアスペルガー症候群の人に援助をする必要が急がれている。発達障害者支援センターなどをはじめ、少しでもアスペルガー症候群の人が社会で暮らしやすいよう、作業所やデイケアなどの設備を整える必要が早急に問われている。最も必要なことがこの障害を理解し、受け入れる環境的素地を作り上げることである。
アスペルガー症候群の著名人
自閉的な特徴を持っていた著名人は多く、研究者や偉人に対する「変わり者の天才」というステレオタイプの形成を助けてきた。ただし、アスペルガー症候群のような高機能な自閉症の存在が知られるのはここ数十年、特に一般に認知されてきたのは1980年代以降であるため、生前に診断や検査を受けた者は例外的である。疑いがあるが、診断されなかった者たちについて残された記録をもって推測する事の是非について論争が絶えない。
アスペルガー症候群の診断を受けている著名人
関連項目
参考文献
- アミー・クライン (編), 小川真弓 (翻訳)、『総説アスペルガー症候群』、明石書店、2008年5月、ISBN 978-4-7503-2779-2
- 今村志穗(原作),ごとう和(画)、『晴れときどきアスペルガー』、講談社、2009年2月13日、ISBN 978-4-06-375655-5 アスペルガー症候群と診断された家族をもつ著者の体験を元にしたコミック
脚註
- ^ Wing, Lorna. Asperger syndrome: a clinical account.
- ^アスペルガー症候群を知っていますか
- ^発売中止に関するお詫び
- ^ 大人のアスペルガー症候群 佐々木正美・梅永雄二著 講談社刊
- ^ ササッとわかる「大人のアスペルガー症候群」との接し方 加藤進昌著 講談社刊
- ^ 「火星の人類学者」 オリバー・サックス著
- ^ヴァインズのクレイグ、自閉症の一種と診断 - BARKS ニュース
- ^ 「炎上上等!? お騒がせブログアイドル・倉持結香の本音に迫る」 日刊サイゾー、2008年4月28日。
- ^ Lane, Megan (2004年6月2日). "What Asperger's syndrome has done for us". BBC.co.uk. 2007-11-08 閲覧。
- ^ Herera, Sue (2005年2月25日). "Mild autism has 'selective advantages'". MSNBC. 2007-11-08 閲覧。
- ^http://www.mondostars.com/entertainment/stevenspielberg.html
- ^http://www.smh.com.au/news/Health/A-syndrome-for-success/2005/06/09/1118123948555.html
- ^ "A Salute to Japanese Game Designers". Ampednews.com. 2007-11-08 閲覧。
2003年11月30日
小林多喜二生誕100年没後70周年記念シンポジウム
―多喜二の文学は語りつくされたか?! ―
於・浜離宮 朝日多目的ホール
亀井 秀雄
I.はじめに ―配布した「要旨」に即して―
私に与えられたテーマは、大熊信行が小林多喜二や伊藤整がどう見ていたか、ということですが、大熊信行についてはやや解説的な紹介が必要かもしれません。そのために幾つか文章を引用しなければなりませんが、彼の独特な用語と理論の操作は、ただ口頭で紹介しただけでは、分かりにくく、混乱してしまう恐れがある。それを避けるためテーマの説明を兼ねた「要旨」をお手元に配布致しました。併せて、伊藤整と小林多喜二の文章も「資料」として添えて置きました。それをご覧いただきながら、話を進めたいと思います。限られた時間がもっと窮屈になってしまったため、少し早口になるかもしれませんが、ご了承下さい。
* * * * * * * * * *
1922年(大正11年)、小樽高等商業学校には、教師としては大熊信行が、そして2年生の学年に小林多喜二が、1年生の学年に伊藤整がいました。後に彼らが展開した、三者三様の文学活動から逆照射して見る時、これは大変に興味ある組み合わせだったと言えます。それを一種の文学史的な伝説にまで作り上げたのは伊藤整でした。彼は『幽鬼の街』(『文芸』1937年8月号)で、小樽を舞台に、3人を実名で登場させ、また、自伝小説『若い詩人の肖像』(新潮社、1956年)では大熊信行と小林多喜二の交渉を、ある種の想像を交えつつ、詳細に描いています。
これが、若き日の3人の関係を物語化する仕方に、いかに大きな影響を与えてきたか、夏堀正元の『小樽の反逆―小樽高商軍事教練事件―』(岩波書店、1993年)を見ればよく分かる。曽根博義の評伝『伝記 伊藤整』(六興出版、1977年)も、関係部分を伊藤整の回想に依存していました。
だが、彼の回想には虚構が含まれていることには注意する必要がありそうです。彼は『若い詩人の肖像』のなかで、多喜二たちの同人雑誌『クラルテ』が1923年6月頃に発行され、大熊信行の詩が載っていたと書いています。しかし『クラルテ』の発行は1924年4月であり、大熊の詩は載っていません。また、『幽鬼の街』では、多喜二に、大熊の『マルクスのロビンソン物語』(同文館、1929年)を批判させていますが、その内容を見るかぎり、伊藤整が同書を読んでいたかどうか、極めて疑わしい。
このような結果が生まれたのは、文学研究者が大熊信行の独自な「読書行為の経済学」の検討を怠ってきたためでもあります。前田愛が『近代読者の成立』(有精堂、1973年)のなかで、大熊信行の『文学のための経済学』(春秋社、1933年)や『文芸の日本的形態』(三省堂、1937年)における読者論に言及し、その先駆的な意義を評価しました。しかし前田愛は、戦後、吉本隆明たちが作った、〈プロレタリア文学運動の芸術大衆化論争は、いわゆる「円本ブーム」とパラレルな現象だった〉という文学史の枠組みから出られなかったため、大熊信行に固有のテーマや理論構築にまで立ち入って検討することはできていません。
II.大熊信行の「時間」論と「配分」論 ―配布した「要旨」に即して―
『文学と経済学』(大鐙閣、1929年)や『マルクスのロビンソン物語』(前出)から読み取れる、大熊の初発のモティーフは、学としての経済学に固有な対象とは何か、を明らかにすることだったと考えられます。彼はそれを、唯物論における「物」や、マルクス経済学における「商品」ではなく、人間の「欲望」とその充足行為に求めました。それを明らかにするために、彼は、一般に物欲(所有欲や金銭欲)から最も遠いと考えられる、例えば〈ミロのヴィーナスを実際に見てみたい〉という「純粋に」精神的な欲望を例に挙げて、しかしこの場合も、その欲望の充足は物質的現実的な条件に拠らざるをえない、と説明しています。なぜなら、ミロのヴィーナスの前に立つためには、船や汽車などの交通手段を借りて、自分の肉体をそこへ運んで行かなければならないからです。ここから彼は、「『精神的』満足は『物質的』にのみ到達される」、「物質的なものに関連しない『精神的』欲望、精神的なものに連続しない『物質的』欲望などといふものは存在しない」(『文学と経済学』)という結論を導き出し、さらに抽象化して、欲望を充たすということは、ある空間的時間的条件を別な空間的時間的条件に変えることだ、と法則化しました。
彼によれば肉体存在としての人間は、常に空間的時間的条件に制約されているわけですが、特に彼は時間的条件を重視ています。ただし、この「時間」は、商品の交換価値を決定する労働時間というマルクス主義的な「時間」概念とは異なり、もっと一般的な、「1日は24時間」という意味の「時間」です。この「時間」は全ての人間を共通に拘束している。そしてこの点が彼の理論の重要な要なのですが、どのような社会も「時間」を増減することはできないし、蓄積することもできない。人間はこの制約のなかで、労働・娯楽・睡眠に時間を「配分」しながら生きているわけです。
マルクスは生産物の分配(apportionment)を問題にしましたが、これからの経済学はそれと共に、あるいはそれに先立って、配分(allotment)の問題から始めなければならない。「しからば配分と分配との概念上の根本的な相異並びにその理論的相関はどう説明されるか。『自由人の団体』(共同体)とさきのロビンソン(孤島の漂流者)とのあひだにおける経済秩序の根本的な相異は、前者には分配問題が存在するが後者には存在しないといふ一点にある。双方に通ずるものは配分問題であり、前者のみひとり分配問題を併有するのである。」(「マルクスのロビンソン物語」・初出は『改造』1929年6月号)。つまり、ロビンソン・クルーソーのように、無人島に流れ着いて、ただ一人で生活している人間の場合、労働の産物を他の人間と分かち合うという「分配」の問題は起こらない。「分配」という社会的な問題が起こるのは、あくまでも共同体のように複数の人間が一緒に生産したり、分業に従事している場合だけだ。ただし、ロビンソンのように孤立した人間であっても、獲物を取るのにどれだけの時間を宛て、休息にどれだけの時間を割くかという、時間の「配分」の問題はある。同じように、共同体においても生産・分配・消費という経済秩序を維持するためには、適正な時間の「配分」の問題があり、この根本的な要件から人間・経済の学が組み立てられなければならない。これが彼の、「配分理論」としての経済学の出発点でした。
彼はこの理論に基づいて、読書を娯楽に位置づけたわけですが、彼によれば、一人の人間がどのような娯楽を選び、どれだけの時間を配分するかは、その人間の選択に任されています。分かるように、この観点からすれば、その人間が文学を選ぶか、科学随筆を選ぶか、あるいは「高級な」純文学を選ぶか、「低級な」大衆読物を選ぶかは、読書経済学の問うところではない。つまり文学/非文学、純文学/大衆文学というような二項対立は意味をなさないことになります。むしろ娯楽としての読書の「価値」は、映画やラジオや音楽やスポーツなどとの差異として捉えるべきであろう。このように論じた点で、彼は極めてソシュール的だったと言えます。 大熊信行がパーソナルな面で小林多喜二や伊藤整をどう見ていたかは、彼の『文学的回想』(第三文明社、1977年)でほぼ尽くされています。それも貴重な証言ではありますが、文学理論家としての小林多喜二や伊藤整をどう見ていた(可能性がある)かは、以上のような理論的観点から割り出してみる必要がある、と思います。
III.大熊信行の拡がり
ところで、読書行為を時間配分の問題として捉える、このような着眼は、歴史的には、明治20年代の読書論にまで遡ることができます。この時期、独学(ひとりまなび)の指導書が、「読書法」という形で数多く出版されました。これは、大都会の上級学校に進むことができず、自学自習によって自分の知的な能力を高めようと心がける青年のために書かれたもので、早稲田専門学校の講義録などと並んで広く普及していったわけですが、当然のことながら、それは、一日のうち学習にどんな時間を配分するかについての助言を含んでいました。
ただしそのなかで、例えば柳沢政太郎の『読書法』(明治25年・1892年)は、文学書を読む時間を割いていません。
私は今年10月の初め、ケンブリッジ大学から新しい『日本文学史』を英語で出したいという企画があり、共同執筆の相談のため、アメリカのイェール大学に行きまして、柳沢が種本に使った、当時のイェール大学の総長、ノア・ポルター(Noah Porter)の読書論(Books and reading; or, What books shall I read and how shall I read them? 1870)を、ケイメンズ教授から見せてもらうことができました。それには、どんな小説を読むべきか、イギリス文学やフランス文学が紹介してあります。ところが柳沢はそういう箇所は省いてしまっている。そういう点からも、1870年代から90年代にかけて、アメリカと日本では、文学がどのように位置づけられていたか、両者の違いを読み取ることができて、大変に興味深かったのですが、その会議の後、私はシカゴ大学に寄って、「日本文学の1930年代――文学の経済学とプロレタリア文学―」(2003年10月6日)という講演を行い、大熊信行を紹介したところ、皆さん大変に興味を示してくれました。その後、シカゴ大学のノーマ・フィールド先生がメールを下さり、私が帰った後も大熊信行のことが話題になり、Moishe Postoneの、 Time, Labor, and Social Domination: A Reinterpretation of Marx's Critical Theory (Cambridge CIP 1993)という本との類似性を指摘する人もいたようです。今私はそれを読んでいる途中なので、結論的なことは言えませんが、大熊信行はそういう拡がりのなかで捉え返す必要があるのではないか、と考えています。
IV.『幽鬼の街』における小林多喜二と大熊信行
ともあれ、私は現在、そういう点から大熊信行に関心を抱いているわけですが、それでは、伊藤整がどんなふうに自分の先生だった、大熊信行の仕事を見ていたか。『幽鬼の街』で彼は、小林多喜二にこんな批評を語らせていました。お手元の「資料」のほうをご覧下さい。
《引用》
・伊藤整『幽鬼の街』(『文芸』1937年8月号)
見ると日本銀行前のだだつ広い第一火防線の道路を、赤ら顔の長身の紳士が歩いて来るのであつた。それは私と多喜二との経済学原論の師、小樽高商教授歌人大熊信行氏であつた。大熊氏は殆ど裾までもあるかと思はれるほど長い藍色の埃除け外套を着、ネクタイの結び目を蔽ふほど長い頚をして、ゆつくりと歩いて来た。その手には「マルクスのロビンソン物語」といふ標題の自著が携げられてゐた。
――あれが歌人にして経済学者なる大熊先生だ。君にはあの人の本当の偉さが解るまい。つまりあの人は芸術と経済学との合致する抽象的なある一点を考へて、自ら自分をそこに置かうとしてゐる。それがだね、いいか、あの人の講ずる福田徳三博士直系の経済学で可能だと思へるかね? え、君思へるかね? 悲劇の人さ。そしてあの人は極めて潔癖な生き方によつて、それのみによつてそこに達しようとしてゐる。だがね、その理想の境地が不可能であればあるほど、あの人は激しい美しい情熱に燃えるのだ。さういふ意味ではラスキンとモリスとを並べて論ずることの出来るのは日本ではあの人ぐらゐのものなんだ。いいかね、それは君のためにも言つておくのだが、情緒のシステムによつて生きる人間は禍なるかなだ。現に大熊先生は、あれだけの美的把握力、あれだけの潔癖と、あれだけの学的才幹とを併せ持つてゐながら、それ等悉くを、あの情緒の哲学によつて貫かうとしてゐる。かういふ生き方に救ひはないのだよ。あの人にとつては、その情緒のシステムに沿つて来る現実しか生きたものではないのだ。己自らがロビンソン・クルウソオではないかといふ観念が時どきあの人を追ひかける。するとあの人は、彼をそこへ追ひ込むものであるカルル・マルクスをばロビンソン・クルウソウであると糾弾せざるを得なくなるのだ。あれは現代日本のウイリアム・モリスだ。美的社会思想家だ。僕はあの人だけはそつとしておきたい。君はどうだ。君は情緒のシステムで生きとほせる自信があるのか。言つてみろ。無いだらう。無いだらう。
(※下線は引用者)
ちなみに、伊藤整はこの作品を『街と村』(第一書房・1939年5月)という単行本に収めるに際して、幾つか重要な書き換えを行なっていますので、「資料」にはそれも紹介しておきました。一般にはこの形で流布しています。ですから、雑誌初出の表現をどんなふうに書き換えたか、興味のある方は、後でご覧下さい。
《引用》
見ると日本銀行前のだだつ広い第一火防線の道路を、赤ら顔の長身の紳士が歩いて来るのであつた。それは私と瀧次の経済学原論の師、小樽高商教授歌人小隈宣幸氏であつた。小隈氏は殆ど裾までもあるかと思はれる長い藍色の埃除け外套を着、ネクタイの結び目を蔽ふほど長い頚をして、ゆつくりと歩いて来た。その手には『マルクスのロビンソン物語』といふ標題の自著が携げられてゐた。
――あれが歌人にして経済学者なる小隈先生だ。君にはあの人の本当の偉さが解るまい。つまりあの人は美意識と倫理との合致する抽象的なある一点を考へて、自ら自分をそこに置かうとしてゐる。それがだね、いいか、あの人の講ずる福田徳三博士直系の経済学で可能だと思へるかね? え、君思へるかね? 悲劇の人さ。そしてあの人は極めて潔癖な思考によつて、それのみによつてそこに達しようとしてゐる。だがね、その理想の境地が不可能であればあるほど、あの人は激しい美しい情熱に燃えてゆくやうなのだ。さういふ意味ではラスキンとモリスとを並べて論ずることの出来るのは日本人ではあの人ぐらゐのものなんだ。いいかね、それは君のためにも言つておくのだが、情緒のシステムによつて生きる人間は禍なるかなだ。現に小隈先生は、あの美的把握力、あの潔癖と、あの学的才幹とを併せ持つてゐながら、それ等悉くを、あの情緒の哲学によつて貫かうとしてゐる。かういふ生き方に救ひはないのだよ。あの人にとつては、その情緒のシステムに沿つて来る現実しか生きたものではないのだ。己自らがロビンソン・クルウソオではないかといふ観念が時どきあの人を追ひかける。するとあの人は、彼をそこへ追ひ込むものである新しい救世主をばロビンソン・クルウソであると糾弾せざるを得なくなるのだ。あれは現代日本のウイリアム・モリスだ。美的社会思想家だ。あの人はそつとしておくより仕方がない。君はどうだ。君は情緒のシステムで生きとほせる自信があるのか。言つてみろ。無いだらう。無いだらう。
(※下線は引用者)
V.小林多喜二の大熊信行評と伊藤整
初めに紹介した大熊信行の理論と、この箇所を較べてみればお分かりように、『幽鬼の街』の多喜二は、『マルクスのロビンソン物語』に関して、まるで見当違いなことしか語っていません。そこに伊藤整のしたたかな計算があった、とも考えられますが、結論を急ぐ前に、もう一つ資料を紹介しますと、大熊信行が『社会思想家としてのラスキンとモリス』(新潮社、1927年2月)を出した時、小林多喜二が『小樽新聞』の1927年2月27日号に「大熊信行先生の「社会思想家としてのラスキンとモリス」」という紹介文を書いています。伊藤整は何かの機会にそれを読み、それを念頭に置いて、先のような箇所を作ったのではないか、と思われます。
《引用》
自分はラスキンとモリスの事に就いて何か云い得る資格のある人は日本に一人位しかいないと思っている。経済学者が、例えば価値論の定義のこの一字が余計だとか余計でないとか云う式にやって行ったって、ラスキンとモリスの真髄はつかめない。例えそれが「社会思想家としての」と範囲を限ったって残念ながら駄目らしい。ラスキンは「近世画家」の著者であり、モリスは「赤い家」を作った詩人ではないか。が、ある人が既に試みてるように、所謂芸術家がラスキンとモリスを議論しようとしても、その芸術家であると同時に異なる他の反面を持ち、その二つがピタリくっついている二人に対しては、どうしてもかゆい所に手がとどかぬ気がするのだ。自分には矢張り、日本にはこの二人を論じ尽せる人は一人位しかいなんではないか、と思うのだ。そしてその一人というのが大熊信行先生である、と思う。そうなのだ。
小樽高商にお出になった頃の先生の室には、レンブラントやゴッホ、セザンヌの原色版の画がかかっていた。曽つて先生は自分に武者小路氏の「その妹」を朗読して聞かしてくれた事もあった。又ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」に対して、その最も芸術的、宗教的な解釈をされた「神聖な記憶」(恐らくこういう独創的な見方をした人を知らない。)を雑誌「思想」に発表されたこともある。と同時に――と同時に経済学者としての先生が学校の講座であの経済価値論を講義するに当り示された遠大な抱負と情熱を忘れることは出来ない。先生の又この方面に対する敬虔な気持ちは「アダム・スミスの漫画化」についても直ちに知られることゝ思う。
教え子の気持ちがこもった紹介文ですが、読み方によっては、自分と大熊信行とが親密な関係にあったことをほのめかし、大熊信行の理解者である自負がちらついている。伊藤整はその点にこだわりを覚えたのかもしれません。というのは、『若い詩人の肖像』のなかで、二人が講義の後、顔をつき合わせるように話し込んでいる場面を目撃して、「それは小林多喜二が最も熱心な生徒であるか、小林多喜二が特に大熊信行と仲がいいか、どちらかであつた。前の事情であれば、彼は、反マルクス主義的な思想を持つてゐるらしい大熊信行をマルクス主義について、問ひつめてゐるのであり、後の事情であれば、小林はこの短歌や詩を作る経済学の若手教授と二人教室に居残つて、文学についての私談をしてゐるにちがひなかつた。いづれにしても、その様子は、私にねたましかつた」と書いているからです。自分は人見知りをする若者だったので、先生に近づくことはしなかった、という意味のことを書いているのも、そのこだわりの反射だったと思われます。
それだけではありません。大熊が多喜二の『クラルテ』に詩を発表していたというフィクションを作りながら、「大熊信行の詩は、福士幸次郎の「展望」か、室生犀星の「愛の詩集」の影響のある、同義語の反復の多い長い詩で、「君は君自身の美しさを知らない、君は君の目なざしが、どんなに無垢な光で輝いてゐるかを知らない。君は君の……を知らない」といふやうなスタイルの少女賛歌であつた」と、大熊をセンチメンタルな抒情詩人に仕立てている。そういうところからも、伊藤整のこだわりを窺うことができます。
VI.大熊信行から見た伊藤整と小林多喜二
それを大熊信行はどう受け取っていたか。『文学的回想』(前出)のなかで、「店頭で立ち読みした他人の詩を、そらで覚えていて、それを後年、小説の材料にするとは、見あげた心掛け」だ、と軽く受け流し、そして先ほど紹介した『幽鬼の街』については、〈昭和12年の夏、15年ぶりに小樽を訪れたところ、たまたま伊藤整の「幽鬼の街」が雑誌に載っているのを知った。その小説には小樽の緑町付近のなつかしい地図がついていたが、地図をたよりに町を出歩いてみると、道の見当が一向につかないのに驚いた〉と、暗に伊藤整の不正確さを皮肉っています。
他方、小林多喜二に関しては、もちろん大熊信行は「小林多喜二は、こざっぱりして、気どりがなく、よく白い歯をむいて笑いながら話す、明るい気分の青年だった」と、なつかしく回想していました。が、「しかし、いちどだけ、経済原論の講義の最中、教壇の前をユウユウと横切って、中途退場したことがあった。「こんなことでもおれはやればできるのだ」といわんばかり、合併教室の一同をねめまわして出ていった不敵の演出は、やはり後年にみるかれの下地が、そこにあらわれていたというべきか」と、小林多喜二の自己顕示的な衒いにも言及しています。また、教室での「居残り会談」に関しては、大熊信行には記憶がないらしく、「小林多喜二が、講義のあとも合併教室に居残って、わたしと話しこんでいたという事実があったとしても」と仮定を立てた上で、「しかし多喜二の質問は、おそらく講義の内容そのものに関するものだったのではあるまいか。わたしが原論をはじめて受けもった大正十一年という年には、十九歳の多喜二はまだ左に傾いていないはずである」と訂正を求めていました。
VII.小林多喜二の「卒業論文」
これは「左」という言葉の意味にもかかわりますが、もしマルクス主義、あるいは共産主義という意味に解するならば、確かにこの時点の小林多喜二は、大熊信行が言うように、まだ「左」になっていませんでした。小林多喜二の卒業論文は、「一九二四・二・三夜」つまり大正13年の2月の日付けを持つ、『見捨てられた人とパンの征服 及びそれに対する附言』というものでしたが、実はこれはいわゆる論文ではありません。アルフレッド・スウトロの「見捨てられた人」(The Man on the Kerb)という、ごく短い戯曲の翻訳と、無政府主義者(アナーキスト)のピーター・クロポトキンの『パンの征服』(La Conquete du Pain. The Conquest of Bread)という、全部で17章から成る論文のうち、第5章だけを翻訳し、簡単な序文を附けたにすぎません。これらの翻訳に、パン、つまり社会的な富の「分配」があまりにも不均衡であることに対する多喜二の憤りが託されていることは明らかです。ただ、よほど短時間で、ばたばたと翻訳したらしく、一つの段落に1、2箇所くらいの割合で、「え? 待てよ」と首を傾げたくなるような「翻訳」が見られる。
クロポトキンは、マルクス主義系統の社会主義をCollectivismと呼び、それを幸徳秋水は『麺麭(パン)の略取』(1908年)のなかで集産主義と訳していましたが、彼の予見によれば、マルクス主義のCollectivismは、個々の資本家的雇主の代わりに国家、つまり代議制的な政府を設けざるをえない。そして、その統制の下に生産と分配を調整しようというわけだが、結局それは全ての民衆をwage-servants(賃金労働者)にしてしまうことにほかならず、それを糊塗するためにall-officials(全公務員化)などと言い繕いながら、order(秩序)、 discipline (訓練)、obedience(服従)を強いてくるだろう。そういう意味の批判を語っていました。社会主義国家に対する幻想が崩壊してしまった現在、これは再考に価する批判的視点だったと言えるでしょう。
それに対して、クロポトキンが言う無政府主義的コミュニズムとは、そもそも国家や政府などという権力機構を認めない。それらを廃絶して、夫々の都市や村落共同体が独立自治の生産単位・生活単位として自立し、自由に連合してゆくことでしたが、この時点の小林多喜二は、まだその辺の違いを厳密にとらえる意識を持っていなかったように思われます。
このクロポトキンの『パンの征服』を翻訳した、幸徳秋水の『麺麭の略取』は秘密出版でした。ですから多喜二がその存在を知る可能性は極めて少なかったと思いますが、しかし遠藤無水の翻訳『労働者の観たるマルクスとクロポトキン』(文泉堂・1920年2月)――John SpargoのThe Marx He Knew (1909)と、Peter Kropotkinの Memoirs of a Revolutionist(1899)の抄訳を合わせたもの――が出ていました。彼がそれを参照していたならばもう少し正確にクロポトキンの主張の急所をとらえることができたのではないか、と思います。
ただ、その半面、彼が序文に書いた次の言葉から、大熊信行的な発想を読み取ることができないでもありません。
「他の人がだまってコツコツと小説を書いている時、トルストイは「その小説」――即ち「芸術とは何ぞや。」という事を考えた。考えて考えて、とうとうその後に産れ出た作品は非芸術もおびたゞしい(はなはだしい?)ものばかりであった。これは知られた事実である。然し、このトルストイの、この一義的な態度にこそ、その非芸術であることを補ってもまだ足りない(まだ余りある?)偉大な、人間としてのトルストイの存在していることを知る。/植物学者(地理学者?)としてのクロポトキンが、無政府主義者になったことによって駄目になったと考えることは、或は正しいであろう。然しそのためにクロポトキンはより偉大な、人間として自分たちの間にあることは忘れることの出来ない事実である」。
(※カッコ内疑問符は引用者)
なぜこの言葉が大熊信行の影響を暗示しているか。美術評論家から社会主義者に転じたJohn Ruskinや、詩人から社会主義者同盟の組織者に転じたWilliam Morrisに注目したのは、大熊信行だったからです。(註1)
VIII.すれ違う大熊信行と小林多喜二
ただし、その後多喜二は、もう一度「卒業翻訳」の序文の言葉を借りますと、「純理経済学は経済政策を予想しなくては、遂にブルジョワの頭脳的遊戯にすぎない。基礎医学は臨床医学のためのものである」と言い、その経済政策、つまり生産物や賃金の「分配」の不均衡を改めようとする、社会変革の運動に入ってゆく。そして文学生産をもその政策の一環として位置づけることになりました。
この純理経済学(Pure Economics)/経済政策 (Political Economy) という対比の仕方もまた、大熊信行が現代の経済学の方向を大きく二つに別けて論ずる時に使った方法で、彼自身も、「政策論的な要素を排除した近代の経済学が、ようやく理論の純化を遂げようとして、ふたたび一段高い意味におけるPolitical Economyに、回帰しなければならない運命にめぐりあうであろうことは、おそらく間違いあるまい」(『文学のための経済学』)と予見していました。しかし、彼自身は「けれども理論そのものの純化のみが、経済的宇宙 (economic cosmos) のおよびへの理解に、われわれを導くことができる」という立場で、マルクスの資本論の再解釈を試み、彼なりの「時間」論と、「配分」論を導入して、経済的宇宙 (economic cosmos) の全体性を記述する方向に進んで行ったわけです。
そういう立場から見れば、小林多喜二、あるいはマルクス主義文学運動における「芸術大衆化論」は、問題の急所を逸している。つまり〈多喜二たちは、プロレタリア文学がブルジョア大衆文学に圧迫されていると言うけれど、実はいずれの文学も、時間の「配分」において、映画や音楽やレヴューやスポーツ、あるいは過去の面白い小説や、優れた文学から圧迫されているのだ。それらの中でどれを選ぶかは、人それぞれのライフスタイルに拠ることであって、その人の階級性に還元することはできない〉。大熊が、そう見ていただろうことは間違いありません。
しかし小林多喜二は大熊の『マルクスのロビンソン物語』については何も語らず、大熊信行はあからさまに多喜二たちを批判することはしませんでした。このお互いの沈黙が伊藤整には気になり、そこで『幽鬼の街』のあの場面を作ってみたのだろうと思います。
(了)
【註1】
ただしこれは、小林多喜二の「卒業翻訳」が大熊信行の指導の下に作成されたことを意味するわけではない。大熊信行は1923年(大正12年)7月――多喜二の3年生の夏――、病気のため故郷の米沢に帰り、翌年の10月、茅ヶ崎南湖院(サナトリウム)に入院し、小樽高商の教壇には復帰せぬまま、1925年、退官した。
http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/symposium/japan/ohkuma.html
ベルヌーイ試行(—しこう)またはベルヌーイ・トライアルとは、「AかBのどちらかしか起こらない」、「yesかnoのどちらかしかない」、「表と裏のどちらかしか起こらない」といった事象(これをベルヌーイ型の事象と呼ぶ)を起こさせることをさす。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%82%A4%E8%A9%A6%E8%A1%8C