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廃藩置県

 

府県の一覧 [編集]

明治4年7月14日 [編集]

明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施された当初、府県名は都市名(府県庁所在地)を付けたものであるが特に旧幕府・旗本領や旧中小藩を引き継いだ県では府県庁所在地周辺よりも多くの飛地を遠隔地に持つ所が少なくない。以下の地方区分は、府県庁所在地によるものである。

北海道東北地方

館県 弘前県 黒石県 斗南県 七戸県 八戸県 盛岡県 一関県 江刺県 胆沢県 仙台県 登米県 角田県 中村県 磐城平県 湯長谷県 泉県 三春県 棚倉県 二本松県 福島県 白河県 若松県 秋田県 岩崎県 本荘県 亀田県 矢島県 松嶺県 大泉県 新庄県 天童県 山形県 上山県 米沢県

関東地方

松岡県 水戸県 宍戸県 笠間県 下館県 下妻県 麻生県 石岡県 土浦県 志筑県 牛久県 若森県 松川県 龍崎県 多古県 小見川県 高岡県 結城県 古河県 関宿県 佐倉県 生実県 葛飾県 曾我野県 菊間県 鶴牧県 鶴舞県 桜井県 久留里県 飯野県 小久保県 佐貫県 松尾県 一宮県 大多喜県 宮谷県 長尾県 花房県 館山県 加知山県 宇都宮県 大田原県 黒羽県 烏山県 茂木県 壬生県 吹上県 佐野県 足利県 日光県 館林県 七日市県 小幡県 安中県 沼田県 前橋県 高崎県 伊勢崎県 岩鼻県 川越県 忍県 岩槻県 浦和県 小菅県 東京府 品川県 神奈川県 六浦県 小田原県 荻野山中県

中部地方

佐渡県 村上県 三日市県 黒川県 新発田県 村松県 峰岡県 新潟県 柏崎県 与板県 椎谷県 高田県 清崎県 富山県 金沢県 大聖寺県 丸岡県 福井県 勝山県 大野県 本保県 鯖江県 小浜県 甲府県 岩村田県 小諸県 上田県 松代県 須坂県 飯山県 長野県 伊那県 高島県 高遠県 飯田県 松本県 高山県 野村県 大垣県 高富県 郡上県 岩村県 苗木県 加納県 今尾県 笠松県 韮山県 静岡県 堀江県 田原県 豊橋県 半原県 西大平県 岡崎県 挙母県 西尾県 西端県 刈谷県 重原県 名古屋県 犬山県 

近畿地方

宮川県 彦根県 山上県 朝日山県 西大路県 水口県 膳所県 大津県 京都府 淀県 亀岡県 園部県 綾部県 山家県 福知山県 篠山県 柏原県 舞鶴県 宮津県 峰山県 久美浜県 生野県 出石県 豊岡県 村岡県 丹南県 堺県 伯太県 岸和田県 吉見県 高槻県 麻田県 大阪府 兵庫県 尼崎県 三田県 姫路県 明石県 小野県 三草県 龍野県 林田県 赤穂県 安志県 山崎県 三日月県 柳生県 郡山県 小泉県 柳本県 芝村県 田原本県 高取県 櫛羅県 奈良県 五條県 和歌山県 田辺県 新宮県 長島県 桑名県 菰野県 亀山県 神戸県 津県 久居県 渡会県 鳥羽県

中国地方

鳥取県 松江県 母里県 広瀬県 浜田県 津山県 鶴田県 真島県 岡山県 鴨方県 生坂県 庭瀬県 足守県 浅尾県 岡田県 高梁県 成羽県 新見県 倉敷県 福山県 広島県 岩国県 山口県 清末県 豊浦県

四国地方

徳島県 高松県 丸亀県 西条県 小松県 今治県 松山県 新谷県 大洲県 吉田県 宇和島県 高知県

九州地方

福岡県 秋月県 久留米県 柳川県 三池県 唐津県 鹿島県 小城県 蓮池県 佐賀県 厳原県 平戸県 福江県 大村県 島原県 長崎県 人吉県 熊本県 豊津県 千束県 中津県 日出県 府内県 佐伯県 臼杵県 岡県 森県 日田県 延岡県 高鍋県 佐土原県 飫肥県 鹿児島県 杵築県

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廃藩置県

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
廃藩置県(はいはんちけん)とは明治維新期の明治4年7月14日1871年8月29日)に、明治政府がそれまでのを廃止して地方統治を中央管下のに一元化した行政改革である。

背景 [編集]

慶応3年12月9日1868年1月3日)に勃発した王政復古クーデターは事実上の中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、中央集権を進めるには各地に未だ残る大名領()の存在をどうするかが問題であった。

明治2年6月17日1869年7月25日)、274大名に版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。

一方、旧天領旗本支配地等は政府直轄地としてが置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを府藩県三治制という。なお「藩」という制度上の呼称はこのとき初めて定められたものであり、江戸幕府下の制度として「藩」という呼称はない。したがって、公式には「藩」とは明治2年(1869年)の版籍奉還から明治4年(1871年)の廃藩置県までの2年間だけの制度である。

当時、藩と府県(政府直轄地)の管轄区域は入り組んでおりこの府藩県三治制は非効率であった。廃藩置県の主目的は年貢を新政府にて取り総める、即ち中央集権を確立して国家財政の安定を目的としたものであるがこれには欧米列強による植民地化を免れるという大前提があった。

しかし、廃藩置県は全国約200万人に上るとも言われる藩士の大量解雇に至るものであった。また軍制は各藩から派遣された軍隊で構成されており、これも統率性を欠いた。そして各藩と薩長新政府との対立、新政府内での対立が続いていた。藩の中には財政事情が悪化し、政府に廃藩を願い出る所も出ていた(池田慶徳徳川慶勝細川護久南部藩など)。

明治3年12月19日(1871年2月8日)、大蔵大輔大隈重信が「全国一致之政体 」の施行を求める建議を太政官に提案して認められた。これは新国家建設のためには「海陸警備ノ制」(軍事)・「教令率育ノ道」(教育)・「審理刑罰ノ法」(司法)・「理財会計ノ方」(財政)の4つの確立の必要性を唱え、その実現には府藩県三治制の非効率さを指摘して府・藩・県の機構を同一のものにする「三治一致」を目指すものとした。3つの形態に分かれた機構を共通にしようとすれば既に中央政府から派遣された官吏によって統治される形式が採られていた「府」・「県」とは違い、知藩事と藩士によって治められた「藩」の異質性・自主性が「三治一致」の最大の障害となることは明らかであった。

実行前夜 [編集]

だが、その実現には紆余曲折があった。当時、中央集権体制を進めるために廃藩置県の必要があることは政府内の共通認識となっていたが、その実施に向けた方策について急進的な木戸孝允と漸進的な大久保利通との対立が続いていた。また木戸が能力を重視して大隈とともに旧幕臣郷純造渋沢栄一らを新政府に登用したことについて、旧幕臣の腐敗こそが江戸幕府の滅亡の原因で維新のために尽力した薩長土肥の若い人材こそが政府に必要であると考える大久保には理解できなかった。

大久保は薩摩藩藩政改革のために鹿児島にいた西郷隆盛に政府出仕を促して、新政府そのものの安定と自己の勢力の挽回を図ろうとした。折りしも山縣有朋御親兵設置構想が浮上すると大久保は岩倉具視とともに勅使として鹿児島に入って西郷説得に成功し、御親兵設置の企画推進のための出仕同意を取り付けたのである。

ところが、出仕の際に西郷が出した意見書(「西郷吉之助意見書」)が大きな波紋を呼んだ。西郷は新政府に必要なのは士族を中心とした軍備強化と農本主義的な国家経営であり、近代工業や鉄道などの建設を推進する政府は「商人」のようであると糾弾した。それは大久保が批判対象とする旧幕臣を飛び越して一連の政策立案の中心である大隈をその最大の対象としまたこれを補佐する伊藤博文井上馨ら、更に伊藤・井上を推挙した木戸に対する糾弾であった。

大久保は、西郷出仕の必要性を重視してこれを受け入れた。明治4年(1871年)1月に西郷は上京し、薩摩などの維新功労者の新政府登用策の受け入れのみで一旦は了承した。しかし、西郷の新政府への不満はその富国政策とその指導にあたる大隈ら大蔵官僚にあったために木戸・大隈との対決は避けられなかった。

また、長州藩の大楽源太郎による反乱やその支持者によると言われる広沢真臣暗殺公家愛宕通旭外山光輔による新政府転覆計画発覚(二卿事件)など新政府内部は更に混乱の様相を見せ始めた。

大久保は6月25日8月11日)に政府人事の大幅改造を断行して参議を西郷と木戸の2人に限定し、自分は大蔵卿として大隈らを掣肘することとした。しかし、西郷によって推挙された大蔵大丞安場保和が大隈弾劾の意見書を提出したために大隈やこれを支持する江藤新平後藤象二郎らが結束してこれに対抗した。弾劾は木戸との全面衝突を望まない西郷や大久保の反対で否決されたものの新政府は西郷派と木戸派に分裂しつつあり、廃藩置県どころか政務は停滞し新政府分裂の危機に至った。

7月4日8月19日)、山県の下に居合わせた鳥尾小弥太野村靖(いずれも木戸派に相当する)が会話のうちにこの状況に対する危機感に駆られて山県に対して廃藩置県の即時断行を提議した。新政府を諸藩と対峙させることによって政権両派の再統一と求心力を回復させようとしたのである。これは、西郷が廃藩置県推進派の木戸と協力して新政府を支える意図があるのかどうかを確かめる目的もあった。山県は即座に賛成し、2人とともに有力者の根回しに走った。

翌日には2人は井上を味方に引き入れ7月6日8月21日)、井上は木戸を、山県は西郷を説得して更に大久保や大隈にも同意を取り付けた。西郷も現状の政局を打破するために廃藩置県によって政府内の流れを変えることを望んだのである。かくして9日8月24日)、西郷隆盛、大久保、西郷従道大山厳、木戸、井上、山県の7名の薩長の要人間で木戸邸で密かに練られた廃藩置県案は三条実美岩倉具視板垣退助・大隈らの賛成を得たのである。

実行 [編集]

 
ウィキソース廃藩置県ノ詔書の原文があります。

明治4年7月14日(1871年8月29日)14時、明治政府は在東京の知藩事を皇居に集めて廃藩置県を命じた。王政復古に次ぐ第2のクーデターであった。

10時に鹿児島藩知事島津忠義山口藩知事・毛利元徳佐賀藩知事・鍋島直大及び高知藩知事・山内豊範の代理の板垣を召し出し、廃藩の詔勅を読み上げた。ついで名古屋藩知事・徳川慶勝熊本藩知事・細川護久鳥取藩知事・池田慶徳徳島藩知事・蜂須賀茂韶に詔勅が宣せられた。午後にはこれら知藩事に加え在京中である56藩の知藩事が召集され、詔書が下された。

藩は県となって知藩事(旧藩主)は失職し、東京への移住が命じられた。各県には知藩事に代わって新たに中央政府から県令が派遣された。なお同日、各藩の藩札は当日の相場で政府発行の紙幣と交換されることが宣された。

当初は藩をそのまま県に置き換えたため現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県あった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも後の県と比べると弱かった。そこで明治4年(1871年)10~11月には3府72県に統合された。

その後、県の数は69県(明治5年(1872年))、60県(明治6年(1873年))、59県(明治8年(1875年))、35県(明治9年(1876年))と合併が進み(府の数は3のままである)、明治14年(1881年)の堺県大阪府への合併をもって完了した。だが、今度は逆に面積が大き過ぎるために地域間対立が噴出したり事務量が増加するなどの問題点が出て来た。そのため次は分割が進められて、明治22年(1889年)には3府43県(北海道を除く)となって最終的に落ち着いた。

統合によってできた府県境は、令制国のものと重なる部分も多い。また、石高で30~60万石程度(後には90万石まで引き上げられた)にして行財政の負担に耐えうる規模とすることを心がけたと言う。

また、新しい県令などの上層部には旧藩とは縁のない人物を任命するためにその県の出身者を起用しない方針を採った。しかし、幾つかの有力諸藩ではこの方針を貫徹できず(とはいえ、明治6年(1873年)までには大半の同県人県令は廃止されている)、鹿児島県令の大山綱良のように数年に渡って県令を務めて一種の治外法権的な行動をする者もいた。

一方、その中で山口県(旧長州藩)だけは逆にかつての「宿敵」である旧幕臣出身の県令を派遣して成功を収め、その後の地方行政における長州閥の発言力を確固たるものとした。尚、この制限は文官任用制度が確立した明治18年(1885年)頃まで続いた。

同県人の知事起用

影響 [編集]

廃藩置県は平安時代後期以来続いてきた特定の領主がその領地所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「明治維新における最大の改革」であったと言えるものであった。

だが、大隈が建議した「全国一致之政体」の確立までにはまだ多くの法制整備が必要であった。その事業は、岩倉使節団の外遊中に明治政府を率いた留守政府に託された。留守政府の元で徴兵令(海陸警備ノ制)・学制(教令率育ノ道)・司法改革(審理刑罰ノ法)・地租改正(理財会計ノ方)といった新しい制度が行われていくことになった。

琉球藩 [編集]

国と冊封関係にあった琉球王朝慶長14年(1609年万暦37年)の薩摩藩による侵攻以来、日本と中国に両属してきた。明治政府は琉球王国を琉球藩として日本に組み入れ、更に沖縄県として実質的国内化を図った。琉球藩とは、明治5年9月14日(1872年10月16日)より明治12年(1879年3月11日までの琉球の公称である。

旧藩債務の問題 [編集]

既に江戸時代中期頃から各藩ともに深刻な財政難を抱えており、大坂などの有力商人からいわゆる「大名貸」を受けたり領民から御用金を徴収するなどして辛うじて凌いでいた。各藩とも藩政改革を推進してその打開を図ったが黒船来航以来の政治的緊張によって多額の財政出費を余儀なくされて、廃藩置県を前に自ら領土の返上を申し出る藩主(藩知事)さえ出てくる状況であった。

これに加えて、各藩が出していた藩札の回収・処理を行って全国一律の貨幣制度を実現する必要性もあった(藩札も最終的には発行元の藩がその支払いを保証したものであるから、その藩の債務扱いとなる)。

廃藩置県によって旧藩の債務は旧藩主家からは切り離されて新政府が一括処理することとなったが、その届出額は当時の歳入の倍に相当する7413万円(=両)にも達して(しかもこの金額には後述の理由で天保年間(1830年1843年)以前に発生した債務の大半が含まれていないものと考えられている)おり債務を引き受けた新政府にも財政的な余裕はなかった。

そこで、新政府は旧藩の債務を3種類に分割した。即ち、明治元年(1868年)以後の債務については公債を交付しその元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する(新公債)、弘化年間(1844年1847年)以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する(旧公債)、そして天保年間以前の債務については一切これを継承せずに無効とする(事実上の徳政令)というものであった。
(なお新政府は朝敵となった江戸幕府による債務はその発生時期を問わずに一切の債務引受を拒絶したため、別枠処理された外国債分を除いて全て無効とされた)

その後、届出額の半数以上が天保年間以前の債務に由来するまたは幕府債務として無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった(藩債処分)。

だが債務の大半、特に大名貸の大半は天保以前からの債務が繰り延べられて来たものであり有名な薩摩藩の調所広郷による「250年分割」などが尽く無効とされたのである。貸し手の商人達から見れば大名貸は一種の不良債権であり返って来る見込みは薄くても名目上は資産として認められ、また社会的な地位ともなりえたがこの処分によってその全てが貸し倒れ状態になり商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。特にこうした商人が続出した大阪(大坂から改称)は経済的に大打撃を受けて、日本経済の中心的地位から転落する要因となったのである。

旧藩主やその家臣はこれらの債務に関してその全てを免責された上、その中には直前に藩札を増刷して債務として届け出て私腹を肥やした者もいたと言われている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E8%97%A9%E7%BD%AE%E7%9C%8C

版籍奉還

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
版籍奉還(はんせきほうかん)とは、明治2年6月17日(1869年7月25日)に日本の明治政府により行われた中央集権化事業の1つである。諸大名から天皇への領地(図)と領民(戸)の返還。

慶応4年(1868年)4月、江戸幕府の解体により成立した明治新政府は、政体書において地方制度では大名領を藩とし、大名を知事に任命して諸大名統治のかたちを残す府藩県三部制を確立する。10月には藩行政と家臣の分離を定める藩治職制を設け、政府による藩統制を行う。翌明治2年(1869年)1月に新政府樹立に貢献した薩摩藩長州藩土佐藩肥前藩が建白書を提出し、同年5月には上局、公議所において諮問が行われて実施され、同年9月には藩制布告が行われる。明治4年(1871年)には薩長土を主体とする御親兵とする軍事力を持って廃藩置県を行い、府県制が確立する。

版籍奉還は次の廃藩置県までの過渡的措置であるが、当時藩に対する明治政府の権力は脆弱で、諸藩への命令も強制力のない太政官達で行うしかなかった。そこで、版籍奉還を行って藩統制に強力な法的根拠を持たせようとしたのである。だが、藩主が非世襲の知藩事に変わり(ただし、実際には事実上の改易処分を受けた福岡藩などの例外を除いては、世襲の後継者がそのまま後任とされている)、陪臣である藩士も知藩事と同じ朝廷(明治政府)の家臣(「王臣」)とされる事で、朱子学に基づいた武士道(近代以後の「武士道」とは違う)によって位置づけられてきた主君(藩主)と家臣(藩士)の主従関係を否定することになるものであり、諸藩の抵抗も予想された。そこで、版籍奉還の実施に際してはその意義については曖昧な表現を用いてぼかし、公議所などの諸藩代表からなる公議人に同意を求めた。更に前後して戊辰戦争恩賞である賞典禄について定めることで倒幕に賛同した藩主や藩士を宥めて不満を逸らしたのである。このため、藩の中には「将軍の代替わりに伴う知行安堵を朝廷が代わりに行ったもの」と誤解する者もあり、大きな抵抗も無く終わったのである。

なお、藩というと幕藩体制というように江戸幕府下の制度と思われがちだが、厳密には、江戸幕府下の体制で公式に「」という呼称はなかった(一部の学者などが書などで使用するのみであった)。ただし、幕末になると大名領を「藩」と俗称することが多くなった。「藩」という名称は中国史による。明治維新後、初めて藩という呼称が公式に使用されたが、廃藩置県で藩が消失するまでのわずか2年程度の行政区名称である。

 

パチンコ

警察との癒着
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警察庁は、パチンコ業界の監督官庁として、その外郭団体である保安電子通信技術協会で遊技機の仕様が適正であるかどうかを調べる試験を行ったり、さらに、試験に通過した機種を実際に営業に供して良いかどうかの検定を各都道府県の公安委員会で行ったり、あるいは店舗営業の許可を与えたりするなど、業界の生殺与奪の権を握る立場にあるため、癒着が発生し易い関係にある。例えば、遊技機の型式試験を行う保安電子通信技術協会の前会長は前警察庁長官であった山本鎮彦であり、職員の1/3を警察出身者が占めることや、パチンコメーカー・アルゼでは前警視総監である前田健治を常勤顧問として迎え入れていたなど、関連団体や企業への天下りとも解釈できる例が見られる[5]

脱税 [編集]

CR機導入以降は減少してはいるものの、依然として脱税が多く、業界全体として、国税庁の2004年度の調査では不正発見割合でみると50.3%と過半数が脱税の疑いがあり、「不正発見割合の高い業種」、「不正申告1件当たりの不正脱漏所得金額の大きな業種」では4206万2000円と、ともにパチンコがワースト2位にランクされている[25]。売上データを改ざんするように、ホールコンピューターを改造する事例もある[26]

不正営業 [編集]

業界各団体の健全化推進の努力が継続的に行われているにもかかわらず、コンピュータープログラムの内容を書き換えた違法改造ROMへの換装や遠隔操作など、風営法で禁じられている無承認構造変更や、玉貸機や計数機を改造して不当な利益を上げようとする、詐欺罪に相当する不正[27]などの、業界の信頼を失う不正行為が根絶できていない[28]。ただし、遊技機の無承認構造変更については、犯罪組織や個人がパチンコ店から玉などを盗むことを企図して行われる場合もあり、必ずしもパチンコ店による不正とは限らない。

パチンコと在日韓国・朝鮮人 [編集]

自営業が可能なパチンコ産業では、国籍・出自による就職差別[36]が影響する他産業に比べ、就業者に占める在日韓国・朝鮮人の割合が高いとみられ、日本に約1万6000~7000店ほど存在するパチンコ店の経営者に占める割合は7割から9割とも言われている[37]。民団傘下の「在日韓国商工会議所」では所属する1万社のうち、約7割がパチンコ業に係わっており[38]、日本の公安当局はパチンコが民団、及び朝鮮総連の資金網と見ている[39]。また、各メディアにおいても北朝鮮送金問題に関して北朝鮮の資金源として、朝鮮総連に関係するパチンコ業界があるのではないかと言われ[5][40]AP通信ではパチンコで負けた損失が核開発に流用されているのではないかと危惧するパチンコファンの声や、パチンコの収益が北朝鮮政府や軍に渡っているという専門家の声を伝えている[41]

 

パチンコと政界 [編集]

パチンコ推進運動 [編集]

パチンコ推進議連として自民党遊技業振興議員連盟民主党娯楽産業健全育成研究会などがあり、パチンコの換金を合法化するなどの案が発表されている。また業界団体パチンコチェーンストア協会には政治分野アドバイザーとして多数の政治家が挙げられている[42]

2008年には、在日本大韓民国民団の代表たちが、韓国の李明博次期大統領当選を祝うために訪韓し、「パチンコ産業への規制による経営の苦しさ」を訴えた。李明博はこれを受け、小沢一郎民主党代表との会談の際に、民団から聞いたこととして小沢へこれに関心を持って欲しいと注文し、小沢は後日に民団から聞くと応じた[43][44] 。後日、民団と在日韓国商工会議所が母体の「レジャー産業健全化推進協会」の協会幹部たちが「遊技業業界の規制緩和を訴える陳情書」を小沢へ提出することとなった[45]

パチンコ規制運動 [編集]

第170回国会(2008年9月24日- 2008年12月25日)では、「パチンコ店における出玉の換金行為を取り締まり、完全に違法化することに関する請願」が西村真悟によって提出されている[46]

歴史 [編集] 

  • 1925年ごろ大阪で横型コリントゲームを改良したパチンコが始まり、これがパチンコの発祥との俗説があるが実際には無関係である。本当のパチンコの発祥はヨーロッパから輸入されたウォールマシンであるが、ウォールマシンがパチンコに変化した経緯は研究途上であり詳細は不詳である。
  • 1930年風俗営業第1号店が名古屋で許可されパチンコ店が開店。
  • 1936年、高知でパチンコが大流行、半年で35店が開店。
  • 1937年日中戦争勃発。
    • 戦時特例法によりパチンコ店の新規開店が禁止される。
    • 現在のパチンコと同じ鋼球式のパチンコが登場。
  • 1941年太平洋戦争勃発。
  • 1942年戦時体制により、パチンコは不要不急産業として全面禁止。パチンコ店は閉店し台は処分される。
  • 1946年、禁止されていたパチンコが復活する。
  • 1948年
  • 1949年
    • 貸玉料金が1円から2円に値上げされる。
    • 丸新物産(現:ニューギン)が名古屋市で設立。
  • 1950年、竹屋商会(現:竹屋)が春日井市で設立。
  • 1951年
  • 1952年
  • 1953年
    • 第1期黄金時代到来。パチンコ店387,664軒にのぼる。製造メーカーは約600社。
    • 循環器第1号機(高速度連射可能機:160~180発/分の玉が自動的に発射)開発。これによりパチンコブームが加熱し、射幸心をそそるとして後の連発禁止令の要因となる。
  • 1954年
    • 東京都公安委員会が「連発式パチンコの禁止」を決定、全国に広がる。
    • 豪快不況が到来、全国軒数も半減。
  • 1955年、モナミ商会(現:三洋物産)が名古屋で設立。
  • 1956年、第一回業界編成期を迎える。
  • 1957年
    • 神武景気を意識した「ジンミット」が登場。
    • 「竹屋式無人機」の登場で、従業員がシマの中に入らなくてもよくなった。
    • 役物コミック機登場。
  • 1958年藤商事大阪市で創業(法人としての藤商事設立は1966年)。
  • 1960年
    • 画期的な「チューリップ」が登場。
    • リモートコントロール方式をはじめて発売。
    • 第2期黄金時代到来
    • 平和が桐生市で設立。
    • 豊丸が名古屋市で設立。
    • パチンコメーカー60社が集まって日本遊技機工業協同組合(日本遊技機工業組合の前身)を結成。
  • 1962年、盤面のファッション化に拍車がかかる。
  • 1963年
    • 分離式(ユニパック)発表。
    • メダル式パチンコ機登場。
  • 1965年、パチンコ店1万軒を越える。オリンピアマシン(パチスロの前身)登場。
  • 1966年三共(SANKYO)が名古屋で設立。
  • 1972年、電動式ハンドルが認可される。貸玉料金が2円から3円に値上げされる。
  • 1973年、太陽電子(現:タイヨーエレック)が名古屋市で設立。
  • 1975年間寛平の「ひらけ!チューリップ」が100万枚の大ヒット。サミー東京都で設立。
  • 1978年、貸玉料金が3円から4円に値上げされる。
  • 1979年、「パチンコの日」制定(毎年11月14日)。高尾、三星(現:サンセイR&D)が名古屋市で設立。
  • 1980年現在のデジパチの基本である「三共フィーバー」が登場
  • 1981年現在の羽根モノの基本である「ゼロタイガー」が登場
  • 1982年権利モノが初めて登場。
  • 1983年、大同(現:ビスティ)が東京都で設立。
  • 1984年、フィーバー機の大当たり時の大入賞口開閉時間を15秒×10ラウンドに規制強化。
  • 1985年保安電子通信技術協会によるパチンコ機の検定制度開始。
  • 1986年、「全国パチンコ・パチスロファン感謝デー」制定。
  • 1988年、警察庁が「CR機構想」を発表。日本レジャーカードシステム設立。東洋商事(現:フィールズ)が名古屋市で設立。
  • 1989年日本遊技関連事業協会設立。
  • 1990年、遊技機規則改定。最大大当たりラウンド数が10ラウンドから16ラウンドに緩和。
  • 1990年代、このころ車に置き去りにされた子供の熱中症事故が問題視され始める。
  • 1992年最初のCR機「CRフラワーショップ」が登場
  • 1993年、「ダービー物語事件」。
  • 1996年、射幸性の高い機種(約70万台)を自主撤去、同時に確率変動の連続を最大80ラウンドに制限する(いわゆる5回リミッター)規則改定が行われる。
  • 1999年、遊技機内規変更。5回リミッターが事実上の廃止。
  • 2002年、遊技機内規変更。最低賞球数が5個から4個に、大当たり確率の下限が1/320から1/360に緩和。大当たり終了後の時短が認められる。
  • 2004年風営法施行規則改定。新基準機が登場。パチンコの種区分が廃止。確変割合の上限(50%)撤廃、内規により最低賞球数が3個(規則上は1個)、最低大当り確率が1/500まで認められることとなった。
  • 2005年、1/500以上まで緩和された最低大当り確率の内規が見直され、1/400以上となる。
    • この頃からパチンコの新機種のテレビCMが頻繁に流れるようになる。
  • 2006年、規則改定。
  • 2006年5月、風営法改定。閉店前やトラブル時の出玉保証の禁止、明らかに18歳未満と分かる者を入場させたパチンコ店に対する罰則規定などが盛り込まれる。
  • 2006年7月、「みなし機」の完全撤去。
  • 2006年8月8日有限責任中間法人遊技産業健全化推進機構設立。
  • 2007年4月、有限責任中間法人遊技産業健全化推進機構が「誓約書」を提出した全国のパチンコホールに対して、「随時・不通知」の立入検査を開始。
  • 2008年3月、内規変更。2004年の規則改定以降なくなった連続予告が復活。

参考文献 [編集]

  • 谷岡一郎 『現代パチンコ文化考』 筑摩書房、1998年。ISBN 978-4480057495
  • 溝口敦 『パチンコ「30兆円の闇」―もうこれで騙されない』 小学館、2005年。ISBN 978-4093797238

脚注 [編集]

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  1. ^ 同法は1948年(昭和23年)7月10日に「風俗営業取締法」という題名で公布された(昭和二十三年法律第百二十二号)。 2回改題されており、施行済み最終改正は2005年11月7日公布、翌年10月1日までに施行(2008年8月1日現在)。改題を伴った改正は次の通り。
    • 1959年2月10日公布→「風俗営業等取締法」
    • 1984年8月14日公布、翌年2月13日施行→「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」
  2. ^ 風営法のこの条項をふくめ、同法、同法施行令同法施行規則には、施設ではなく営業を表す「ぱちんこ屋」が登場するが、この ぱちんこ屋 以外にもパチンコ営業はありうる。パチンコ台は「ぱちんこ遊技機」と表記される。「ぱちんこ台」「ぱちんこ店」は登場しない。
  3. ^ 風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行規則第三十五条第一項第二号
  4. ^ ■ iクリア導入店が消費税の貸出時転嫁を打診
  5. ^ a b c d e f 溝口敦著 『パチンコ「30兆円の闇」―もうこれで騙されない』 小学館、2005年 ISBN 978-4093797238
  6. ^ 帝国データバンク;パチンコ業界の倒産動向調査
  7. ^ パチンコ営業と同じく風営法2条1項7号の風俗営業である「まあじやん屋」や同項8号の風俗営業(一部のゲームセンターなどが該当)では、営業に関し遊技の結果に応じて賞品を提供することが禁じられている(風営法23条2項)。ゲームセンターにおける景品を提供するゲームについてはプライズゲーム#法的な問題点を参照。
  8. ^ 東京都などで行われている金地金を提供することは、警察庁の解釈基準により有価証券の提供に当たらないとされている。■ 「風適法」解釈運用基準が改正
  9. ^ 風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律施行規則35条3項
  10. ^ ぱちんこ営業に係る賞品の取りそろえの更なる充実に向けたぱちんこ営業者に対する指導及び取締りについてPDF(警察庁丁生環発第348号・平成18年12月20日)。形式的には業界団体による自主規制を追認する形を取っている。
  11. ^ www.nichiyukyo.or.jp/news/pachinkochyosa0305.html (財)社会安全研究財団による「パチンコに関する世論・有識者調査」
  12. ^ 中国新聞 - 景品の直接買い取りで逮捕
  13. ^ 川崎でパチンコ景品の偽物/560万相当、詐欺で捜査
  14. ^ ■ パチンコ店業界、株式上場不発
  15. ^ ■ 都内で流通する金賞品が値上げに
  16. ^ 都遊協 - 金賞品流通システムについての経過報告
  17. ^ Card Readerの略―玉を貸し出すためのプリペイドカードを読み取らせる機器が付いたパチンコ機。
  18. ^ 音楽著作権料分配、「エヴァ」「北斗の拳」上位 パチンコ・オンラインゲーム寄与 - ITmedia
  19. ^報酬系』と呼ばれるサイクルでは一般的に、例えばサルを使った実験では「ボタンを押すと必ずエサが出る」仕組みより、「ボタンを何回か押していると、ランダムにエサが出ることがある」(「間欠強化」と呼ばれる)仕組みのほうが、急にエサを出さなくなった場合であっても、このサルは長い時間に渡ってボタンを押し続ける事が実験でわかっている。多くのパチンコ客が『ハマリ』に陥った場合でも打っている台を諦め切れないのは、この仕組みで説明できる。
  20. ^ パチンコ・パチスロ依存症を予防するためのホームページ
  21. ^ 全日本遊技事業協同組合連合会のアナウンス:「パチンコは、適度に楽しむ遊びです」
  22. ^ ギャンブル依存症などの相談センター 横浜メンタルヘルスサポートセンター
  23. ^ 全日本遊技事業協同組合連合会 やめて!子供の車内放置!
  24. ^ 毎日新聞2007年5月5日朝刊
  25. ^ ■ パチンコは「ワースト2」、脱税体質さらに悪化
  26. ^ 機構ニュース 2008年7月号 P.6(遊技産業健全化推進機構)
  27. ^ 機構ニュース 2008年7月号 P.5~6(遊技産業健全化推進機構)
  28. ^
  29. ^
  30. ^ 美しい星空を守る井原市光害防止条例施行規則PDF - 1989年、旧美星町が制定。当時の名称は「美しい星空を守る美星町光害防止条例」。
  31. ^ パチンコ店の出店に反対 京田辺市の住民有志らが市に署名を提出(2005年12月7日 京都新聞)
  32. ^
  33. ^ パチンコ台のテレビCM自粛、「子どもが見る」朝夕各4時間
  34. ^ 廃棄パチンコ台の処分問題
  35. ^ 大阪を本拠とする四海樓グループでは2004年5月より「四海樓レディース店」を道頓堀に設置していた。全面禁煙であるほか、ひざ掛けやスリッパを提供してくつろげる場所を提供するとしていたが、売上不振によりすでに閉店している。
  36. ^ 野村進『コリアン 世界の旅』(講談社プラスアルファ文庫)より。
  37. ^
    • パチンコチェーン店マルハンの韓昌祐会長は、2005年5月18日放送のワイド!スクランブルインタビューの中で、現在日本にあるパチンコ店の約7割が在日韓国・朝鮮人による経営だという見解を示した。
      • またその中で北朝鮮送金問題の質問に対し、「北朝鮮国籍の人は北朝鮮に忠誠を尽くしているのでいろいろな形で北朝鮮に奉仕しているのは事実」と語っている。
    • AERA(2006年2月13日号)では全国のパチンコ店オーナーの出自の内訳は、韓国籍が50%、朝鮮籍が30~40%、日本国籍、華僑が各5%とし、1993年武藤嘉文外務大臣の国会答弁で「パチンコの金が何千億と北朝鮮に行っている」と認めている、と報道した。
  38. ^ "日本政府、民団に制裁措置"朝鮮日報 2006/6/27
  39. ^ 民団、総連との和解で反発拡散 2006/5/30朝鮮日報
  40. ^ 2006年7月11日放送 ムーブ! 金正日体制を支える 北朝鮮「送金ルート」を断て
  41. ^ Pinball bumper business for N. Korea, Japan fears2006年4月12日 Associated Press
  42. ^ パチンコチェーンストア協会理事・会員リスト
  43. ^ 李次期大統領が小沢代表と会談、参政権付与など要請2008年2月21日総合ニュース
  44. ^ "客離れパチンコ業界 「カジノ法案」でさらに苦境?"2008年2月28日J-CAST News
  45. ^ 2008年4月11日グリーンベルト
  46. ^ パチンコ店における出玉の換金行為を取り締まり、完全に違法化することに関する請願

 

関連項目 [編集]

 

パチンコ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 パチンコとは、ほぼ垂直に立つ、多数の釘が打たれた盤面に、小さな鋼球を弾き入れてこれを特定の入賞口に入れる遊技(ゲーム)である。遊技機(ゲーム機)そのものは「パチンコ台」と呼ばれる。パチンコ設備を設けた施設は、最も一般的には、「パチンコ店」または「パチンコ屋」と呼ばれるが、パチンコ業界やパチンコ雑誌、ファンの間では、モダンで明るい印象となることを意図して「パーラー」と呼ぶ例もある。このような遊技施設は、1930年に最初の店舗が開店し、その後第二次世界大戦時は賭博として一時は全面禁止となったが、終戦後に復活した。

客にパチンコをさせる営業(以下「パチンコ営業」)は日本では、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(以下「風営法」) [1]第二条第一項第七号で「設備を設けて客に射幸心をそそるおそれのある遊技をさせる営業」として定める風俗営業である [2]。営業者は客が遊技の結果で得た鋼球を賞品と交換する。風俗営業者として、十八歳未満の者について、営業所に立ち入ってはならない旨を入り口に表示するよう義務づけられる(風営法第十八条)とともに、客として立ち入らせることを禁じられている(風営法第二十二条第一項第五号)。パチンコ遊技施設は、現在ではギャンブル的要素を持った庶民の身近な娯楽施設として都市や地方を問わず国内各地にくまなく存在しているが、同時に多くの社会的問題も抱えている(→パチンコ#問題点参照)。パチンコ店以外では、ゲームセンター露店などにてもパチンコ台が、設置、運営される。コンシューマ分野においては、中古のパチンコ台を個人向けに売買する市場があり、また、このようなパチンコ台の特徴を模した玩具や、シミュレーションゲームとしてのビデオゲームもある。

 

風俗営業としてのパチンコ営業 [編集]

ゲーム概要 [編集]

パチンコ台は、多くは木製の板に多数の真鍮製の釘が打ち込まれた盤をほぼ垂直に立て(この立てた盤の傾斜を「ネカセ」と呼ぶ)、前面を二重のガラス板で覆い、ここに直径11mm、重さ5gのパチンコ球と呼ばれる鋼球を据え付けられている発射装置によって弾き入れる。弾かれた球は、盤面上の釘や羽根、回転体などの構造物に当たりながら複雑な軌跡で下に落ち、この間に球が入賞口(セーフ穴)に入ると、1個から15個の、規定数の入賞球を獲得することができる。盤面には、遊技の妙味を増すために、「役物(ヤクモノ)」と呼ばれる特別な入賞口や仕掛けが施されている。役物は機械仕掛け・電気仕掛けにとどまらず、近年ではデジタル部品を駆使したデジパチと呼ばれるハイテク度の強い機種が主流である。

遊技料金 [編集]

パチンコ遊技料金は、国家公安委員会規則である風営法施行規則で玉1個につき4円以下と定められており(2008年8月1日現在) [3]、最低の貸し出し単位は25個(100円)である。ただし業界の監督官庁である警察庁は、2000年12月に「消費税分は1個4円以内という制限に含まれない」との見解を示しているため、一部店舗では100円で25玉に満たない貸し出しの可能性を検討している[4]1997年の消費税率改訂時には、貸し玉料金に消費税を上乗せ出来なかったホールは、売上以外に転嫁して自己負担する形になった。

近時「5銭パチンコ」「1円パチンコ」「2円パチンコ」として1玉1円ないし2円で貸し出している店舗もある。対応する台は、以前の人気台などの中古品が多い。少ない資金で長く遊べることを謳っており、客離れ対策として行われていると思われる。ただし、換金レートは貸出額と同額ではなく、4円貸出の場合より低いレートであることが多い。

社会とのつながり [編集]

レジャー白書2005に依れば、パチスロを含めた遊技への参加人口は1,790万人に及び、市場規模は29兆50億円である[5]パチンコチェーンストア協会によると、就業人口は約44万人であり、就業人口に対して売り上げが大きいとされる。現在は娯楽の多様化や、高くなったギャンブル性と依存性が指摘されるようになっていることから、ピークの参加人口からは年々減少傾向にある。

パチンコ店の業況 [編集]

2004年7月に改正された遊技規則の影響を受け、2004年6月以前に保安電子通信技術協会(保通協)の検定を通過したパチンコ遊技機やその他の遊技機は、遅くとも2007年9月末までに全て撤去することが義務付けられた。また大当たりの連チャンが人気だった4号機パチスロ機も同時に撤去対象となっており、これに伴いパチンコホールは入替のために多額の費用負担を強いられた上、射幸心を煽る遊技機の規制により大幅な客離れが見込まれたため、金融機関もパチンコ業界へのファイナンスに対し非常に慎重になった。そうしたあおりを受け、2007年4月27日には業界第6位のダイエー(本社・会津若松市)が東京地方裁判所民事再生法の適用を申請したことを代表に、2007年度のパチンコ店倒産件数は前年比37.1%増の大幅増加となった[6]

景品交換 [編集]

風俗営業としてのパチンコ営業では、客が遊技の結果で得た玉などを賞品と交換する[7]。風営法は営業者に、現金や有価証券を賞品として提供することや客に提供した賞品を買い取ることを禁じたり(23条1項)[8]、賞品の価格の最高限度に関する基準(国家公安委員会規則で定める。2008年8月1日現在で1万円 [9])に従った営業を義務づけ(19条)たりして、パチンコの射幸性を抑制している。

提供される賞品は、一般的に、「一般景品」と、「特殊景品」の2種類に大別される。

一般景品 [編集]

風営法施行規則35条2項2号では景品として「客が一般に日常生活の用に供すると考えられる物品のうちから、できる限り多くの種類のものを取りそろえておくこと」を店舗に求めている。そのため、タバコや菓子のほか、店によってネクタイハンカチ靴下などの洋装小物、電気製品、化粧品大衆薬アクセサリーCDDVD食料品など様々で、大型のパチンコ店内の景品交換コーナーは小型のスーパーマーケットにも似る。

なお警察庁では2006年12月に、パチンコ景品として最低500種類以上(ホールの設置台数が500台以上の場合はその台数と同数以上の種類。うち最低200種類は実物を展示)、品目としては家庭用品・衣料品・食料品・教養娯楽用品・嗜好品・身の回り品・その他の7品目中5品目以上を取り揃えるよう求める通達を出している[10]

特殊景品 [編集]

 
特殊景品の一例

特殊景品とは、パチンコ店外に設置されている、各都道府県の公安委員会に古物商の許可を受けた景品買取所に売却することを前提とする景品を指す。これによりパチンコはギャンブル的な要素を持つとされている[11]。しかし、前出した風営法23条1項の禁止規定があるので、パチンコ店が景品交換所を経営することはできない。そのため、パチンコ業界はパチンコがギャンブルでは無いという建前で、三店方式(もしくは四店方式)と呼ばれる方法を採っている。

  • ホールは客の出玉を特殊景品と交換
  • 客は特殊景品を景品交換所に持参すると、古物商である景品交換所は特殊景品を現金で買い取り
  • 景品問屋が景品交換所から特殊景品を買い取り、ホールに卸す

四店方式の場合は、ホール、景品交換所、集荷業者、卸業者と経由する[12]

つまり、法律的な位置づけでは「古物の売買」になり換金にはあたらないとされ、ホール、景品交換所、景品問屋の三店がまったく違う経営主体という建前のもと、パチンコ業界は違法性を逃れている。しかし、神奈川県川崎市高津区のパチンコの景品交換所では「持ち込まれた景品に偽物が混じっていた」として、偽造景品による詐欺事件[13]が発覚したが、この被害届が景品交換所ではなく、ホールから届出されていた。景品交換所とホールの関係が証明されたにも関わらず、神奈川県警は取締りを行っていないことや、パチンコ店チェーンがジャスダック証券取引所に株式上場を求めたところ、「出玉の景品を換金する業界慣行の合法性があいまいなため、投資家保護を果たせない。」として上場を認めない[14]など、様々な疑義が提示されてはいるものの、検察が、パチンコを賭博罪として起訴した例は無く、裁判所によって、パチンコ及び三店方式が、刑法の賭博罪に当たるかどうかについての判断は示されていない。

2007年には、東京都で使用される特殊景品である地金の価格上昇のため、出玉を交換した結果として得られる特殊景品を景品交換所に持ち込むよりも通常の貴金属店に持ち込んだほうが価格が高くなる、という逆転現象が起きたため(このため一部では「単純に現金を玉(メダル)に交換して景品を受け取り売却するだけで儲かる」とも噂された)、急遽金地金景品の流通価格が値上げされた[15]。しかしこの際に取られた対応は、旧価格で交換された景品の交換所への持込を防ぐために「値上げ後の対象景品にシールを貼る」だけというものであり、今後金価格がさらに上昇した場合には同様の問題が再燃する可能性が高い。また「シールの貼付により自動払い出し機に不具合が出る」「一部の問屋が金地金景品を抱え込み、それ以外の問屋の営業に支障が出ている」などの問題も報告されており[16]、システムの運営が懸念されている。

遊技機 [編集]

1970年代後半頃までのパチンコ台は、玉を弾くスプリングを戻す強さの加減をレバーを使って手動で行いながら一発一発打っていた。現在のパチンコ台は玉の自動射出機構を備えており、ハンドルに手を添えるだけで玉を打つことができる。玉の射出頻度は、パチンコで0.6秒に1発、アレパチでは0.5秒に1発以内と規定されている。ハンドルに手を添えている間は永続的に玉が射出されるため、射出を一時的に停止させる押しボタンが、ハンドルの付近に搭載されている。

パチンコ遊技には最低限の技術介入が求められるため、ハンドルを器具などで固定する遊技方法を防止する目的として、ハンドルには、素手で触れていることを検知するセンサーが取り付けられている。

CR機[17]の導入以降、1回の大当たり(特賞)の入賞球を増やしたり、確率変動(確変)を導入して大当たりの確率を高める代わりに特賞以外の入賞球を減らすなど、射幸心を煽る傾向にある。本来の風営法では客に射幸心をそそるおそれのある遊技機を禁止しているのにも関わらず、脱税対策を建前としたCR機の普及の為に、射幸心を煽る傾向にある遊技機を認可したことが原因であると言われる[5]

近年のパチンコ台では、タイアップ機と呼ばれる、かつてのアニメーション・特撮ドラマなど子供向けキャラクターを題材にしたもの、あるいは著名芸能人が監修またはモチーフとするものが殆どを占めている[要出典]。特に2006年あたりから、超一流の人気歌手・人気アイドルとタイアップした機種が目立って増加している[要出典]

実際2007年度のJASRAC賞で銀賞を受賞した「エヴァンゲリオンBGM」においては、パチンコ・パチスロでの著作権使用料が同楽曲の使用料全体の44%を占めており、パチンコ台から得られる版権収入がカラオケ着うた等と並んで音楽業界において無視できない金額となってきたことを示している[18]

インターネット上では近年のパチンコ台をゲームにしたパチンコゲームと呼ばれるものも人気を集めている。

しかし、一方でパチンコ台の題材にアニメが使われる事についてアニメの原作ファンの否定的な意見も存在する[要出典]

遊技機は国家公安委員会の指定試験機関である保安電子通信技術協会によって規定上の条件を満たしているか試験が行われ、その後各都道府県の公安委員会の検定を受け、その後ホールに設置され、ホール所轄の警察が試験を行う。全ての試験を合格して初めて客が遊技することが可能となる。

検定の有効期間は3年間とされ、有効期間を過ぎた遊技機は現行法下の遊技機については設置は可能だが、検定が満了しているため変更が一切認められない。そのため故障などの場合は、部品などの交換や修理が出来ないため、故障のまま放置するか、新しい遊技機と入れ替える必要がある(故障したまま稼動を続けることは出来ない)。 なお、「みなし機」撤去は、法が改正され遊技機の基準を満たさなくなったために行われたものであり、現行法が改正されない限り、現行法下での検定を合格した遊技機は、検定期間が満了した際に撤去しなければならない、ということではない。

  • また、現行機については、認定を受けることで、認定日から更に3年間、設置運用(部品交換等の変更可)が認められる。

現在の遊技機は、以下の基準に沿って作られている。

  • 大当たり確率が最低でも1/400以上。また、異なる確率を採用する場合(確率変動や、始動口で異なる確率にする場合)、2種類までの確率を採用できる。
  • 1回の確率変動で獲得できる平均出玉は8000個以下。
  • 総出玉のうち、役物による出玉(役物比率)が60%以下。
  • 打ち込み6000個(1時間)の出玉率の上限は300%、打ち込み60000個(10時間)での出玉率の上限が200%、下限が50%。
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