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●プロタゴラスBC500-BC430
「万物の尺度は人間である」という言葉で知られ、相対主義を唱えた人物の一人として有名である。人間それぞれが尺度であるから、相反する言論が成り立つのである。こうした主張からソフィストは詭弁を用いて黒を白と言いくるめる、とみなされるようになった。一方で、ルネサンスが人間を尺度とする復興であったことから、尺度の基準は人間であると主張したギリシア哲学・西洋哲学におけるソフィストの存在を軽視してはならないことが分かる。ref)ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(下)』岩波文庫(岩波書店)
●プロディコスBC465-BC415
古代ギリシアの哲学者。ソフィストの第一世代にあたる。「彼は、プロフェッショナル・フリーランス・教育者というすべての意味で、ソフィストだった」。
●ヒッピアスBC460?-BC399
プラトンは、2つの対話編『ヒッピアス (大)』(en:Hippias Major)と『ヒッピアス (小)』(en:Hippias Minor)でヒッピアスの方法論を非難している。本の趣旨からして誇張してるのは疑いないだろうが、一方で、ヒッピアスは人間について十分な知識を持ち、彼が自称するような階級であったとも書いている。Ref)キケロ『弁論家について』 III.127
●イソクラテスBC436-BC338
古代ギリシアの修辞学者で、アッティカ十大雄弁家の一人。イソクラテスは当時のギリシアで最も影響力のある修辞学者で、その授業や著作を通して修辞学と教育に多大な貢献をしたと考えられている。Ref)プラトン『クラテュロス』
論理学:
アリストテレスの師プラトンは、対話によって真実を追究していく弁証論を哲学の唯一の方法論としたが、アリストテレスは経験的事象を元に演繹的に真実を導き出す分析論を重視した。このような手法は論理学として、三段論法などの形で体系化された。
アリストテレスの死後、彼の論理学の成果は『オルガノン』 (Organon) 6巻として集大成され、これを元に中世の学徒が論理学の研究を行った。
範疇論:
アリストテレスは、述語(AはBであるというときのBにあたる)の種類を、範疇として下記のように区分する。すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」(『カテゴリー論』第4章)。ここでいう「実体」は普遍者であって種や類をあらわし述語としても用いられる(第二実体)。これに対して、述語としては用いられない基体としての第一実体があり、形相と質料の両者からなる個物がこれに対応する。
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(中)』岩波文庫(岩波書店)
《文献》
『アリストテレス全集』全17巻, 岩波書店, 1968年-1973年,『形而上学』(哲学書)1.存在論,2.神学,3.普遍学,
【論理学的著作】『トピカ』『カテゴリー論』(『範疇論』とも)『命題論』『分析論前書』『分析論後書』『弁論術』
エンゲルス
●『イギリスにおける労働者階級の状態(1,2)』
●『ドイツ・イデオロギー』(マルクスとの共著)
青年ヘーゲル派の批判を通じて、唯物論的な歴史観の基礎を明らかにしようとした著作だが、マルクス・エンゲルスの生前は刊行されず、草稿・原稿の集積として終わり、死後に刊行された。
『反デューリング論(オイゲン・デューリング氏の科学の変革)』
●『フォイエルバッハ論(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結)』
マルクス・エンゲルスが彼らの思想を固めた時期を振り返り、その思想を簡潔にまとめた貴重なものとして読まれた。付録の『フォイエルバッハに関するテーゼ』は、『ドイツ・イデオロギー』等の遺稿が公開されていなかったので、とりわけ貴重な哲学的命題群として読まれた。
本文は、平易な文で、広く読まれてきた。しかしその平易さゆえ、ドイツ哲学が受容されていない地域では恣意的に解釈され、また、生前のマルクスが関説していない論点についてはマルクスからの逸脱を指摘する説もあらわれた。マルクス主義の入門書であるとともに論争の書である。
「序」によると、この小論文はC.N.シュタルケ著『ルートヴィヒ・フォイエルバッハ』(1885)に対する書評を依頼されたのをきっかけに書かれたものである。意図するところは、復活してきた古典哲学派に、自分たちがヘーゲル哲学から出発し、そして離れて行った経過をあきらかに示すこと、同時に、その時のフォイエルバッハの役割の大きさを示すことで彼への借りを返すこと、と言う。
●『家族・私有財産・国家の起源』
国家や一夫一婦制、私有財産を自明のものとする歴史観にたいして、それらが歴史的なもの、すなわちある条件のなかで生成し、またその条件の解消にともなって消滅(変化)するにすぎないと主張した。本書の序文に「以下の諸章は、ある程度まで遺言を執行したものである」とあるように、エンゲルスの盟友であったカール・マルクスが書いたルイス・ヘンリー・モーガンの『古代社会』の摘要(ノート)を使って、エンゲルスが独自に仕上げたものである。エンゲルスはマルクスの死後、1884年2月にこのノートを発見し、5月には脱稿するという異例の早さで執筆した。1884年段階では社会主義者取締法があり、それを考慮せざるをえなかったが、同法の廃止をうけて、4版では倍に増やした。増やした主要な部分は第2章の家族に関する章で、著作全体の3分の1以上をしめ、エンゲルスがもっとも重要視した章である。
マルクス・エンゲルスは『共産党宣言』において「これまでのすべての歴史は階級闘争の歴史である」と書いたのち、これに注をくわえ、原始状態を別とした。マルクスが1859年に『経済学批判』を書いた時点で、すべての民族の歴史の入り口に原始共産制社会があったと考えた。こうした理論を豊富化するために、マルクスもエンゲルスも古代史の研究を熱心におこなった。ゲオルグ・ルートヴィヒ・フォン・マウラーの『ドイツ村落制度の歴史』や、マクシム・マクシモーヴィッチ・コヴァレフスキーの『共同体的土地所有 その解体の原因、経過および結果』、サー・ヘンリー・ジェームズ・サムナ・メーンの『初期制度史講義』、サー・ジョン・ラボックの『文明の起源と人類の原始状態』などのノートがつくられた。また、J・J・バッハオーフェンの『母権論』からも大きな影響を受けており、エンゲルスは本書の序文でバッハオーフェンについて言及している。
●『空想から科学へ(空想から科学への社会主義の発展)』
1880年に社会主義への入門書としてエンゲルスが自著『反デューリング論』を抜粋してつくったパンフレット。正式名称は「空想から科学への社会主義の発展」。1880年のフランス語版や1892年の英語版などは『空想的社会主義と科学的社会主義』というタイトルだった。
本書の出版の経緯は、本書にあるエンゲルスの序文に簡潔にまとめられている。ドイツの2つの労働者党(アイゼナハ派とラサール派)が合同し1875年にドイツ社会民主労働党が結成されたころ、カール・マルクスやエンゲルスの理論を基礎とするグループは、アイゼナハ派の一部でしかなかった。そのとき、この政党内で理論的影響を広げつつあったのが、ベルリン大学の私講師であったオイゲン・デューリングだった。デューリングはマルクスの理論を1つの仮想敵としており、さらに「彼のまわりに1つの派閥、すなわち将来別個の党になる中核を公然とつくりはじめた」(エンゲルスの序文)ので、エンゲルスはこれを批判する論文を機関紙『フォルウェルツ』で連載。これが1878年に出版されて『反デューリング論』(正式名は「オイゲン・デューリング氏の科学の変革」)となった。
『反デューリング論』はドイツ語だけであったのと、マルクスの娘婿で「フランス下院議員であるポール・ラファルグの要請によって、私〔エンゲルス──引用者注〕はこの本の3つの章をパンフレットにまとめ、それをラファルグが翻訳して、1880年に『空想的社会主義と科学的社会主義』という表題で出版した」(エンゲルス前掲書)。
本書の第1章は、『反デューリング論』の「序説」第1章「総論」、第3篇第1章「歴史的概説」を使い、第2章は「序説」第1章、第3章は第3篇第2章「理論的概説」を活用している。『反デューリング論』がマルクスとエンゲルスの理論分野を網羅した著作になったことに対応し、本書にものちにウラジーミル・レーニンが「マルクス主義の3つの源泉と3つの構成部分」として定式化した社会主義理論、哲学、経済学の3つの要素が簡潔に入っている。しかしこの定式をマルクス主義の定式としてしまうことには異論も多い。
エンゲルスは『反デューリング論』についてその序文のなかで「私〔エンゲルス──引用者注〕は印刷する前に原稿を彼〔マルクス──引用者注〕に読みきかせた」とのべ、また本書についてもマルクスは序文で本書を「科学的社会主義の入門書」と紹介したように、基本的にマルクスの承認のもとに本書は刊行されている。
フランスの民放テレビがこのほど、テレビ映画「権力の学校」を放映し、話題を呼んだ。学校のモデルは高級官僚の養成所である国立行政学院(ENA)。卒業生は「エナルク」と呼ばれ、政財官界を支配している。
この映画が話題となったのは、登場人物のモデルが、1980年卒組の社会党のロワイヤル前大統領候補、彼女の“同居人”だったオランド前社会党第1書記、ドビルパン前首相であることに加え、サルコジ大統領がENAの改革を推進しておりニュース性があったからだ。
改革の目玉は卒業時の席次順による官庁指名制度の廃止だ。これまでは成績上位の生徒は財務監督官、会計検査院、参事院のうちのどれかを指名。そこで数年働いた後に、大統領府や内閣の官房に入る。人脈づくりに励んで議員や閣僚を目指すか、大手企業に天下る-。かくてエナルクが官界どころか政財界も支配するという結果になっていたが、これにメスを入れようというわけだ。
しかし、ドゴール将軍が45年にエリート教育の必要性を痛感してENAを創設した当時は、野望や出世とは無縁の、国家に無私に奉仕するエリートを育てるのが目的だった。第二次世界大戦でレジスタンスを率いたドゴール将軍にとって、戦前の自国のエリートたちはヒトラーの侵攻を座視したばかりか、戦時中も大半がドイツへの協力に走り、結果的に国家を敗北へと導いた「裏切り者」だった。
エリートがダメな国は結局、ダメになるというわけだ。ENA創設の政令では(1)国民のアイデンティティーの再構築(2)社会的階級からの官僚の独立(3)国益を最優先し各官庁間の隔絶を解消(4)政治からの独立-などを規定し、真のエリートのあるべき姿を示している。
フランス全土から、貧富を問わず結集された優秀な人材を育てるために、ENAの生徒には、ナポレオンが創設した理工科学院(ポリテクニック)や高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリュール)の生徒と同様、月給が出ている。フランスがいかに国家の屋台骨になるエリートの教育に力を入れているかがうかがえる。
ところが、2009年に入学し11年に卒業する現在の生徒81人(男49、女32)のうち、両親が労働者階級である者は3人、農業が1人で、大半はいわゆる富裕層の出身だ。ドゴール将軍の創設の理念を具現しているエナルクが今、フランスに何人いるのだろうか。
サルコジ大統領が大統領選に勝利した要因の1つとして「非エナルク、非エリート」があげられている。シラク前政権時代、シラク氏はもとより首相のドビルパン氏も、保革政権時代に首相だった社会党のジョスパン氏も、そして両政権の閣僚の大半もエナルクだった。ジョスパン氏の下で雇用・連帯相として「週35時間労働制」を導入したオブリ社会党第1書記もエナルクだ。
労働時間を短縮し、その分の仕事を失業者に配分して雇用を創出するという週35時間労働制は結局、失敗した。現実の社会と乖離(かいり)した「机上の空論」だったことから社会混乱を招いた。現実と遊離してエリート集団と化した社会党は「キャビア社会党」と呼ばれて失墜し、02年の大統領選でシラク氏が再選された主要因ともなった。
エリートによる閉塞(へいそく)感を一掃したいという国民の期待を担って登場したサルコジ政権では、弁護士出身の大統領以下、非エナルクが大半を占める。エナルクはペクレス高等教育・研究相とジュアノ環境担当相の2人だけだ。
サルコジ大統領のENA改革が、ドゴール将軍の創設理念に沿ったENAの復活につながるのかどうか。それにしても日本には真のエリートがいるのだろうか。
『資本論』は、資本主義の生成、発展、没落(発展的解消)に関する本で、よく誤解されているように共産主義の未来モデルを描いた著作ではない。しかし、『資本論』には、資本主義的生産の歴史的性格を浮き彫りにするために、それ以前の生産様式(封建制、奴隷制など)がしばしば登場し、資本主義以後の社会、すなわち共産主義社会についてもその限りで大まかな特徴づけが数十カ所で行われている。
ただし、全3部の中で「共産主義社会」と形容されている箇所はわずか2箇所しかなく、マルクスはこの資本主義以後の社会について「結合的生産様式」「結合した労働の様式」「協同的生産」「社会化された生産」などと形容している。より詳細な規定としては、「協同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する自由な人々の連合体」(第1部第1編)、「労働者たちが自分自身の計算で労働する社会」(第3部第1編)、「社会が意識的かつ計画的な結合体として組織」(第3部第6編)などがある。
ここからもわかるように、『資本論』においては旧ソ連式の国有化・単一計画などの具体的形態に言及した箇所は無く、生産を社会の理性によって規制するという一般論が述べられているだけである。また、マルクスは『資本論』第3部で、「自由の国」と「必然の国」の問題に触れ、共産主義革命の目的を述べている。すなわち、経済が資本主義=剰余価値(もうけ)の追求から解放され、社会の合理的な規制の下に服して社会の必要に対する生産という経済本来のあり方を回復するが、それでも生産は人間が生活していく上で必要な富をつくりだすための拘束的な労働(必然の国)が要る。しかし、この時間は時間短縮によって次第に短くなり、余暇時間(自由の国)が拡大する。『資本論』第3部では、この時間の拡大によって人間の全面発達がおこなわれ、人間が解放されるとマルクスは主張した。