[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
1848年にロンドンに於いて秘密結社・正義者同盟(義人同盟)が組織改変されて生まれた秘密結社・共産主義者同盟の幹部(具体的にはカール・シャッパー)から依頼を受け、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって執筆された“共産主義者同盟”のための綱領文書。1848年2月、カール・シャッパーの校閲を経たうえで出版された。出版された当時は執筆者の名が記載されていない。厳密な意味では、マルクスやエンゲルスだけの著作ということはできないが(下記参照)、後年『宣言』が何度も再版されたがマルクスもエンゲルスも自著(共著)としてこれを扱い、序文を書いている。
正義者同盟(別訳語:義人同盟)は1836年にパリで生まれた亡命ドイツ人を中心とした組織である。エンゲルスは『ドイツにおける社会主義』という論文のなかで、正義者同盟はフランスの革命家であるフランソワ・ノエル・バブーフ以来のユートピア的な共産主義の伝統をひくもので、財貨全体を共有することや秘密結社としての色合いが濃かったことを回顧している。
同じくエンゲルスの回顧(『共産主義者同盟の歴史によせて』によれば、マルクスとエンゲルスはこの組織に後から接触し、同盟の首脳部も全欧州に同盟員をもつ組織に発展する過程で秘密結社的・バブーフ的な共産主義結社からの脱出を模索していた。同盟の首脳部幹部(具体的にはカール・シャッパー)は、ヴァイトリング派に抵抗するため、当時孤立状況にあったマルクスとエンゲルスに提携することを決断。シャッパーはマルクスたちに加盟をすすめ、同盟の危機的状況を打破する理論的宣言を執筆するよう依頼した(1847年秋)。1847年6月の第1回大会では『共産主義の信条表明』が暫定的な綱領草案として採択される。『共産主義の信条表明』は全文がエンゲルスによって書かれており、書記のヴィルヘルム・ヴォルフ(de:Wilhelm_Wolff)と議長シャッパーの署名がある。
『共産主義の信条表明』草案は22の問答体形式で書かれたが、同盟のブリュッセル班でも賛成が得られなかった。またモーゼス・ヘスは上記草案の修正案を提出する。エンゲルスはこれを徹底的に批判、同盟より新草案の作成を一任される。このため、エンゲルスは再び10月下旬から11月にかけて問答体の草案を書くことになった。これがいわゆる『共産主義の原理』である。以前の『共産主義の信条表明』草案が22の問答形式で書かれたのに対し、その後に書かれた『共産主義の原理』は25の問答になっている。服部文男の論考によれば、これらのエンゲルスの手書きの草案以外に、新たな別の案が作成されていた可能性がある。
6月の第1回大会の半年後、同盟の第2回大会が1847年11月29日から12月8日にかけてロンドンで行われた(これにはマルクス、エンゲルスも出席している)。エンゲルスは大会直前の1847年11月23日付の書簡で「問答形式をやめ、共産主義者宣言という題」にする方がよいという趣旨をマルクスに伝えた。それに対し同盟幹部は1847年11月の組織再編大会で採択した規約において「党の名のもとに宣言を発布する」としていた。
ところがヨーロッパの革命的情勢がますます切迫したものになっていたにも関わらず、マルクスの『宣言』執筆は全くはかどらず、遅々としていた。そのため1848年1月25日付の共産主義者同盟中央委員会(ロンドン)からブリュッセル地区委員会(マルクスである)に宛てた通信「1月24日の中央委員会決議」では、マルクスに対し新綱領となる『宣言』を2月1日までにロンドンに発送するように督促をしている。
マルクスはなんとか1月に綱領案を脱稿し、その後ロンドンへ発送。翌月24日、カール・シャッパーの校閲を経て、ロンドンで印刷・発行された。この時に著者名がつけられていないのは同盟の方針である。また共産主義者同盟の中心者は上述のようにマルクスではなく、カール・シャッパーと、その反対派の急先鋒ヴィルヘルム・ヴァイトリングであった。したがってこの文書にはマルクス、エンゲルスの思想とは別に共産主義者同盟幹部たちや職人革命家たち(ヴァイトリング、シャッパー等)の政治的見地や社会的意識が反映している。このためマルクス研究者の間では、この文書は厳密な意味ではマルクス自身の著作ではないという見解がある。
・的場昭弘・内田弘・石塚正英・柴田隆行編『新マルクス学事典』弘文堂、2000年、122~124ページ参照
・篠原敏昭・石塚正英編『共産党宣言――解釈の革新』御茶の水書房、1998年、40ページ参照
1845年から1846年にかけて執筆された、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスとの共著作である(ただし実際の草稿のほとんどはエンゲルスによって執筆されている)。青年ヘーゲル派の批判を通じて、唯物論的な歴史観の基礎を明らかにしようとした著作だが、マルクス・エンゲルスの生前は刊行されず、草稿・原稿の集積として終わり、死後に刊行された。
1845年 - 1846年にかけて、マルクスとエンゲルスがベルギーのブリュッセルで共同執筆した。書き上げた原稿は出版社から出版を断られたが、執筆を通して自分たちの取り組むべき問題を浮き彫りにするという2人の目的は達せられたため、原稿はマルクスの家の屋根裏に放置された。マルクスは後にこのことをふりかえり、「気前よく原稿をネズミどもがかじって批判するがままにさせておいた」(マルクス『経済学批判』への序言)と自嘲した。この原稿はマルクスの死後、エンゲルスに引き取られたもののやはり放置され、エンゲルスもまた没した後にドイツ社会民主党の手にわたったが、ここで原稿が分散。ごく一部の原稿を、同党の幹部であったエドゥアルト・ベルンシュタインが発表するにとどまった。
ロシア革命後、原稿の複写がソ連政府にわたり、モスクワ「マルクス=エンゲルス研究所」の機関誌としてダヴィト・リャザーノフが編集した "Marx - Engels Archiv" 第1巻1926年により、初めて草稿のほぼ全体が刊行された(リャザーノフ版)。
その後、ダヴィト・リャザーノフがソ連共産党による粛清をうけると、「マルクス=エンゲルス=レーニン研究所」(リャザーノフ粛清後、名称が変更される)は1932年アドラツキー編集による「マルクス=エンゲルス全集」("Marx / Engels historisch-kritische Gesamtausgabe" 、いわゆる旧MEGA)第1部第5巻でアドラツキー編集の新版を刊行した(アドラツキー版)。
リャザーノフ版は文献学的検証がなかったものの原稿をできるだけそのままに提供する形で刊行されたが、アドラツキー版は、原稿をバラバラにして、自分たちの意図通りの順番に並べ替えるという恣意的な作業を行ったため事実上偽書に等しい。この編集方針は1960年代に批判を呼び、その後さまざまな編集方針のもとでいくつものタイプの『ドイツ・イデオロギー』が刊行されることになり、リャザーノフ版(1926年),アドラツキー版(1932年),ドイツ語新版(ブルシリンスキー監修、1962年),新MEGA[1]試行版(1972年),廣松渉編訳・河出書房新社版(1974年),服部文男監訳(渋谷正・橋本直樹訳)版(1996年),渋谷正編訳版(1998年),廣松渉編訳・小林昌人補訳・岩波文庫新版(2002年)
などの諸版が存在する。
マルクスが1843年秋以来の「15年間の研究成果として」1857年8月から1858年5月までに執筆された一連の経済学批判の草稿を指す。公刊を意図して書かれたものではない。彼が亡命先のロンドンで行なった経済学研究の最初のまとまった成果であり、のちに『資本論』の形をとることになる主著の構想を展開した最初の原稿と見なされる。書名『経済学批判要綱』“Grundrisse der Kritik der politischen Okonomie”は、マルクス=エンゲルス=レーニン研究所が1939年および1941年に2分冊として出版された際、最初につけられた標題である。この2分冊は1953年に写真複製版・合本で出版され、巷間に知られることにより、『経済学・哲学草稿』と『資本論』を媒介する文献として研究されてきた。
なおマルクスの『経済学批判』(1859年)という著作は、この『経済学批判要綱』の「貨幣に関する章」をもとにマルクスが作成した原初稿(Urtext)を更に改稿して成立したものである。当初の計画では同じ題名で続編を出す予定だったが、著述プランに変更があり、続きは1867年に『資本論』第1巻として出ることになる。
アントニオ・ネグリのように資本論よりも重要視する思想家も存在している。
『経済学・哲学草稿』⇒『経済学批判要綱』⇒『資本論』
*ネグリなどは資本論よりも要綱を重視。
・「歴史は必ず繰り返す。最初は悲劇として。そして次は、喜劇として」
・「下部構造が上部構造を規定する」 (時代の政治制度や文化、宗教など歴史の非経済的要因は、生産関係を中心とする経済のあり方に規定されている)
・「宗教とは、民衆の阿片(アヘン)である」
・「役に立つ物が増え過ぎると、役に立たない者が増え過ぎる」
・「職業選択における主なみちしるべは、人類の福祉と私たち自身の完成ということである。この二つは敵対して闘うもの、一方は他方を否定するはずのものと考えるのは誤りで、人間の天性は、その時代の完成と福祉とのために働く場合に、はじめて自己の完成をも達することができるようにできている」(ギムナジウム(高校)時代の卒業論文「労働生活は果たして幸福か」の一節)
・「社会の歴史は、階級闘争の歴史である」
・「万国のプロレタリア(労働者階級)よ、団結せよ」
ウィキペディアからの抜粋
●概要
グランゼコール(またはグランド・ゼコール、グランド・ゼコル) (Grandes Écoles) とは、フランス独自の高等専門教育機関のこと。grandes écolesは、グランデコール(グランデコル)(une) grande écoleの複数形である。したがって、本記事中、単数形で表記したほうが適当である場合には、グランデコールを用いる。
一般には名門のグランゼコールばかりが注目されるが、グランゼコール自体はフランスに200校ほどあり、その中でも歴史のある学校が名門とされ、まさにエリート養成機関としての役目を果たしている。
●成立の歴史
現在名門とされる国立のグランゼコールの多くは18世紀に設立された。こういった歴史の古いグランゼコールのほとんどが理工係技術者の養成機関である。これは、フランス革命によって貴族制が否定された後、新しく国家を再建するための人材(理工系の技術者)が求められたが、当時のフランスの大学は、職業訓練校・実学高等専門学校として機能しておらず、そういった分野の人材育成機関を国家が自ら用意する必要があったためである。
最初のグランデコールは王立技術学校を再編する形で作られたエコール・ポリテクニークである。理工系グランゼコールを卒業した者はフランスの富国強兵政策の技官として、また富国強兵政策の立案者としてその役割を担ってきた。
理工系のグランゼコールが充実すると、経済・商業関係のグランゼコールも設立され始める。しかしこの時期に設立されたグランゼコールが現在のような名門としての地位が高めるのは、下記の国立行政学院の設立以降である。
第二次世界大戦後にはよく知られているフランス国立行政学院が設立された。
●グランゼコールの評価
アメリカや日本などの大学でのマス教育とは異なり、少数精鋭の教育を行う。いずれも超難関で知られ、入学難易度の高さは世界的にも屈指だが、日本やアメリカの大学とは性質が大きく異なるために比較は難しい。
世界の大学ランキング評価では、純粋な教育レベルや研究レベルだけでなく、設備・出版論文数などの学生の数に比例する項目が加味されているため、少数で特定の分野での精鋭教育を行うグランゼコールは不利になる場合が多い。そのため、フランスでは絶大な支持のある名門グランゼコールでも国外での評価は芳しくないこともある。例えば世界の大学ランキングで信頼度の高いゴーマンレポートでは、フランス国内では名門グランゼコールより下に見られがちなパリ大学が世界ランキング1位とされることもある。
また、グランゼコールは実学の教育機関であるため、研究機関としての評価を問われれば、相対として低くならざるを得ない。しかし、理工系の名門グランゼコールには、トップクラスの優秀な研究者や教授が所属しており、研究レベルは非常に高い。
●グランゼコール選抜試験
グランゼコールへの入学を希望するものはグランゼコール準備学級に所属する必要がある。グランゼコール準備学級は独立した学校ではなく、主に名門中高一貫校にある、バカロレアの後の進学コースのようなものである。 名門校のグランゼコール準備学級に入学できる子女の絶対数は限られており、必然的にグランゼコールに進学できる生徒数も制限されている。学生はこの準備学級で2年間勉学に励むが、1年次から2年次への進級も難関であり、卒業も難しい。このようにグランゼコールを目指す者は朝から晩までも猛勉強し、太陽を見ることがないと言われている。そのためグランゼコール準備学級の学生はモグラと呼ばれ揶揄されることもある。
準備学級を卒業したものはグランゼコールの選抜試験へと進む。選抜試験は、筆記(小論文形式)と面接による試験である。
このような厳しい道のりを経て名門グランデコールに合格すれば、その対価として、聴講官という国家公務員の立場となり、給金が支給される。さらに、卒業後も専攻した分野のエリートとしての待遇が保障されており、実際、政・官・財・学すべての分野にて多くの卒業生が活躍している。
●主なグランゼコール
〇理工系グランゼコール
フランスでは名門グランゼコールに入学することが、エリートコースであるという認識が根強いため、注目も高く、色々なランキングが出されている[1][2]。評価は、ランキングを算出する機関や雑誌により異なるが、古くから一般的には、エコール・ポリテクニーク、パリ国立高等鉱業学校、エコール・サントラル・パリが理工系三大グランゼコールとして認知されている。また国立土木学校 や高等電気学校も名門中の名門として認識され、入学選抜試験も最難関であり理工系のグランゼコールの頂点に君臨している。
〇文系グランゼコール
グランゼコールは理工系分野を中心に創設された経緯があり、文系のグランゼコールは比較するとそれほど多くはなく、歴史も浅い。しかしエコール・ノルマル・シュペリウール高等師範学校やEPHEエコル・プラティック・デ・ゾート・ゼテュード高等研究院は文理両立のグランゼコールとして設立されたため古い歴史を持っている。
政治分野に関しては、国立行政学院やパリ政治学院が名門とされる。パリ政治学院を卒業して、フランス国立行政学院に入学するパターンが特にエリートとされている。
近年、MBAなどを取得できるグランゼコールもある[3][4]。
なお、名門グランゼコールの学生や出身者は通称で呼ばれ、例えば、ポリテクニシャン(エコール・ポリテクニーク=理工科学校)、サントラリアン(エコール・サントラル=中央学校)、ノルマリアン(エコール・ノルマル・シュペリウール=高等師範学校)、エナルク(エナ=国立行政学院)などがある。
●名門とされるグランゼコール
国立行政学院 (ENA; École nationale d'administration )
フランス国立司法学院 (École Nationale de la Magistrature)
エコール・ノルマル・シュペリウール (École normale supérieure)
エコール・ポリテクニーク (École polytechnique)
国立古文書学校 (École nationale des chartes)
国立高等学校アール.エ.メチエ (École nationale supérieure des Arts et Metiers)
HEC経営大学院 (HEC; École des hautes études commerciales)
パリ高等商業学校 (ESCP-EAP;École Superieure de Commerce de Paris)
高等商業学校 (ESSEC; École Superieure des Sciences Economiques et Commercials )
リヨン経営学大学院 (EMLYON Business School)
パリ政治学院 (Science-po; Institut d'études politique de Paris)
中央学校 (EC; École centrale (Paris, Lille, Lyon, Nantes, Marseille))
パリ国立高等鉱業学校 (École nationale supérieure des Mines de Paris)
高等電気学校 (Supélec, École supérieure d'électricité)
国立土木学校 (École nationale des ponts et chaussées)
国立応用科学院 (INSA; Institut National des Sciences Appliquées)
国立高等情報通信学校 (Télécom Paris, École nationale supérieure des télécommunications)
国立高等農学院 (Établissement National d’Enseignement Supérieur Agronomique)
工業物理化学高等学校 (École Supérieure de Physique et de Chimie Industrielles)
サン=シール・コエトキダン陸軍士官学校 (Écoles militaires de Saint-Cyr Coëtquidan)
海軍士官学校 (École navale)
空軍士官学校 (École de l'air)
●補足
フランスの高等教育機関(日本の大学にあたる教育機関)は、主にグランゼコールと大学に分けられる。大学の場合バカロレア試験に合格すれば、各大学の定員などにもよるが希望の大学に進学することができる。高等教育機関に所属する学生の内、主なグランゼコールに所属する学生は全体のわずか数パーセントである。
グランゼコールは即戦力として活躍できるような職業人として鍛え上げる高等職業専門学校である。そのため、大学教育を数年受けてからグランゼコールを受験する学生も存在する。
フランスでは、大学も含めて公教育がほぼ無償であるが、グランゼコールは国立であっても有償であり、学費も決して低くはない。また、グランゼコール準備学級がある名門中高一貫校は、私立であることが多く、上流階級の家庭でなければ授業料を払うことすらも難しい。サルトルといったフランスを代表する人物を輩出してきたリセ・ルイ・ルグランは公立であるため無償であるが、この学校の場合は、そもそも入学すること自体が極めて困難である。
また、グランゼコールには医学・法学・神学の分野が存在しない。そのため、医者や弁護士、聖職者になりたい場合は、大学に進学する必要がある。
● 脚注
^ Palmarès des grandes écoles - Lepoint.fr
^ 技術系のグランゼコール
^ Ecoles de commerce post-prépas - Palmarès des grandes écoles - Lepoint.fr
^ 商業系(MBA)のグランゼコール