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アメリカ合衆国憲法修正第18条
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アメリカ合衆国憲法修正第18条(Amendment XVIII)とは、飲料用アルコールの製造・販売等を禁止するかつてのアメリカ合衆国憲法の修正条項の一つ。
1933年に修正第21条の批准によって廃止された。日本では、修正第18条とこの修正条項を実施するための法律であるボルステッド法(Volstead Act)とを明確に区別することなく禁酒法(きんしゅほう)と呼ぶことが多い。
経緯 [編集]
ピューリタン(清教徒)の影響が強かったアメリカ合衆国では、アルコールに対する強い批判があり、1851年にメイン州で最初の禁酒法が制定されたのを皮切りとして20世紀初頭までに18の州で禁酒法が実施された。宗教的理由に加え、男性が(不健全な)酒場に入り浸り家庭生活に支障をきたすことに対する女性からの批判は大きく、女性を中心とする禁酒運動は根強く存在していた。そこに第一次世界大戦の開始に伴い戦時の穀物不足を予防するという経済的な動機が出現し、全国的な禁酒法制定への機運が盛り上がった。なお、そこには酒造・酒販業界を牛耳るドイツ系への反発感情もあったと見る向きもある。
禁酒法を全米に適用するには合衆国憲法の修正が必要となるため、修正案が連邦議会に提出された。修正第18条は、1917年12月18日に議会を通過した。ウィルソン大統領はアルコール度2.75%以下の酒類の除外を議会に働きかけたが失敗した。1919年1月16日に3/4の州(当時36州)による批准が完了し憲法修正条項が成立したが、既にこの時点で禁酒法導入の名分の一つとされた第一次世界大戦は終結していた。しかし憲法修正を受け連邦議会はボルステッド法を制定し、翌1920年からアメリカ全土で施行された。
禁酒法では、飲料用アルコールの製造・販売・運搬等が禁止されたが、自宅内における飲酒は禁止されなかったので、多くの富裕層は施行前に酒を大量に買い溜めしていた。
問題 [編集]
実際にはざる法であり、うまく機能しなかったと言われている。飲酒禁止によって犯罪を抑止しようとしたが、逆に酒をめぐる犯罪が増加したためである。
- 隣国カナダからの輸送を取り締まらなかった。カナダ国内で合法的に販売された酒類は爆発的に売れ、アメリカへと持ち込まれることになった。これによりカナダ経済は非常に潤うという結果を生んだ。
- 禁酒法の執行官の待遇が悪かった。密造業者や密造、アル・カポネをはじめとする密売に関わるギャングに買収されたりした執行官が多かった。
- 密造酒による健康問題や、密売に関わるギャングやマフィア同士の抗争による治安の悪化も問題となった。
- 不健全な酒場を廃止することが目的の一つだったにもかかわらず、より不健全な非合法酒場が横行した。
- 世界恐慌で景気が後退すると、財政難の中、密売酒・密造酒が課税されないことが大きくクローズアップされるようになった。
- 医療目的と称して薬局を通すと、ウイスキーを手に入れることができた。ちなみに、病院に行けば、医者は1枚2ドルで処方箋を書いていた。
廃止 [編集]
ルーズベルト大統領は当選すると、かねてからの公約通り禁酒法の廃止へと動いた。そして、1933年2月17日にアルコール度3.2%以下の酒類の販売を認めるブレイン法 (Blaine Act) が連邦議会で可決された。さらに、2月28日には修正第18条を廃止する修正第21条が可決され、12月5日に施行された。
禁酒法が施行されていた期間は、13年10か月。フーヴァー大統領が「高貴な実験」と呼んだ禁酒法は、悪法の代名詞として後世に記憶された。
しかしながら、米国では、現在でも、18州が酒類の販売を州営の店舗等、特定店舗のみに規制している (Alcoholic beverage control states)。また、酒類の販売を全面的に禁止している郡即ちドライ・カウンティ (Dry county) も、南部及び中西部を中心に多数存在する。